【連載】 原田和典のJAZZ徒然草 第88回

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2013.10.01

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『ひばり&川田inアメリカ1950』を聴きながら、歌姫・美空ひばりのスイングとグルーヴ感に酔いしれているぜ

20世紀に記録された「未発表音源」が引きもきらずリリースされている。
ボブ・ディランの『アナザー・セルフ・ポートレイト』には驚かされたし、ビートルズの『ライヴ・アットBBC vol.2』も楽しみだ。
ジャズでは南西ドイツ放送(SWR)のアーカイヴ・シリーズがとんでもなかった。オスカー・ペティフォード、黄金時代のモダン・ジャズ・カルテットがいいのは当然としても、1959年のベニー・グッドマン・オーケストラや1967年のデューク・エリントン・オーケストラが予想以上に瑞々しくて心底うれしくなった。とくにグッドマンは同じ頃のスタジオ録音(チェス、コロンビア)や、58年のベルギー・ブリュッセル万博ライヴをはるかに凌駕していた。特別ゲストのアニタ・オデイの歌唱も実に快く、どう考えてもラリっている58年のニューポート・ジャズ祭(映画「真夏の夜のジャズ」収録)のパフォーマンスよりぜんぜんリズムのとり方が落ち着いている。


ボブ・ディラン『アナザー・セルフ・ポートレイト』 

ビートルズ『ライヴ・アットBBC vol.2』 


OSCAR PETTIFORD
Lost Tapes Barden Barden 1958-1959

MODERN JAZZ QUARTET
Lost Tapes Germany 1956-1958

BENNY GOODMAN
Benny Goodman Orchestra feat.Anita O'Day

DUKE ELLINGTON
Big Bands Live Liederhalle Stuttgart March 6, 1967


日本のレーベルではマシュマロ・エキスポートが相変らず素晴らしい。11月25日に出るエリック・ドルフィーの『ミューゼス』は63年に行なわれたアラン・ダグラス・セッション(『アイアン・マン』、『カンヴァセイションズ(メモリアル・アルバム)』)の別テイク+初公開曲集。ディスコグラフィには記載されていたものの詳細は不明だった全5ヴァージョンがついに公のものになる。これがわくわくせずにいられようか。バド・パウエルの57年吹き込み『ラヴァー・マン』も今から聴ける日を心待ちにしている。資料を参照するとサイドメンはドナルド・バード(tp)、フィル・ウッズ(as)、ポール・チェンバース(b)、アート・テイラー(ds)だから、55~56年頃のジョージ・ウォーリントン・クインテットのピアノをパウエルに替えただけともいえる(もっともウッズとチェンバースの参加時期は重複していないが)。あるいは当時のパウエルのレギュラー・ユニットに気鋭ホーン奏者ふたりを加えた特別編成とも見なせる。こうしたひとつひとつの発掘が、ジャズ史の空白を埋めていくわけだ。


ZOOT SIMS / At Birdland

ERIC DOLPHY / Muses

BUD POWELL / Live At Birdland 1957


この9月に発売されたばかりなのが、『ひばり&川田inアメリカ1950』である。敗戦から4年10ヶ月後の50年6月、美空ひばりと川田晴久(義雄)がかつての敵国アメリカに乗り込んだときのライヴ・レコーディング。この音源が発掘されるに至った、まことに奇跡的な経緯についてはCDライナーノーツに書いてあるだろうから省くが、まず音が鮮明なことに驚いた。聴いてすぐ「テープではなくアセテート盤からCD化したのだろう」と僕は思った。録音したものの再生されないまま約65年間も、とくにメンテナンスもせずに放っておかれたテープなら、磁性体が剥げることによって生まれるドロップ・アウト状態は避けられないだろう。さらに、それほど長い間放っておかれたらテープ自体が「ワカメ」になって当然、だと感じたからだ。それに比べてアセテート盤は、その盤に派手なキズがついていない限り、吹き込んだときの状態を真空保存したかのようなサウンドで再生することができる。チャーリー・クリスチャン『オリジナル・ギター・ヒーロー』の一部、チャーリー・パーカー&ディジー・ガレスピー『タウン・ホール1945』などは、状態の良いアセテート盤(それは再生回数が少ないほど望ましい)を、細心のリマスタリングを施してCD化した結果、生まれた優秀録音盤なのだ。


『ひばり&川田inアメリカ1950』

しかし『ひばり&川田』の原音源は、アセテートでもテープでもなかった。ワイヤーからのディスク化である。ワイヤー・レコーダー(ステンレスワイヤーに音声を磁気録音する機械)について少し調べたところ「通信用・記録用の機器であり、音楽向きではない」というような記述も見かけたが、日本コロムビアによるリマスター技術も功を奏してか、鑑賞にまったくさしさわりのない瑞々しい音質で楽しめる。

内容については、「これぞライヴの醍醐味」というひとことに尽きるだろう。僕は決して美空ひばりのマニアックな聴き手ではないけれど、それでも作品は十数種持っている(日本語で書き、日本に暮らす音楽評論家としては最低限の所有枚数かもしれない)。“日本のレイ・ブラウン”小野満との婚約、白木秀雄北村英治との共演、ルイ・アームストロングのサイン入りLPを宝物にしていたことなど、ジャズとの絡みをテーマにしても無数の切り口がある。なかでも「うわー、すげえ。これぞジャパニーズ・エンタテイナー」と唸らされるのが観客を前にした演唱だ。58年の『ひばりの花絵巻』(於・歌舞伎座)、69年の『心に詩(うた)を~美空ひばり・森繁久彌 二人の声~』(於・大阪フェスティバルホール。「リンゴ追分」は、ホレス・シルヴァーの「セニョール・ブルース」風にアレンジされている。編曲は山屋清)、71年の記録映画『ひばりのすべて』(於・帝国劇場)、皆、すごかった。子供の頃に祖母とテレビで見たコンサート中継、そこで流れた「唇に花シャッポに雨」のノリの良さも忘れられない。身震いせずにはいられない感覚。これを僕はたまに、エリス・レジーナの歌を聴いたときにも感じることがある。

『ひばり&川田』録音当時、美空ひばりは弱冠12歳だった。今ならハロプロ研修生の佐々木莉佳子(2001年5月28日生まれ)や和田桜子(2001年3月8日生まれ)が当時のひばりと同年代にあたる。レコード・デビューは1949年8月、「河童ブギウギ」という曲で。これはさほどセールスを挙げなかったときくが、続く「悲しき口笛」は45万枚も売れたと伝えられる。まだまだ焼け野原、飯にありつくにも困っていたはずの日本国民のうち、45万人ものひとがなけなしのお金をはたいてレコードを買ったのだから、これは最近の「CDが100万枚売れた」とか「初回盤AとかBとか通常盤うんぬん」という世界と決して一緒にするわけにはいかない。同じ頃のアメリカ・ジャズ界に目を転じると『チャーリー・パーカー・ウィズ・ストリングス』、マイルス・デイヴィス『クールの誕生』、『ジ・アメイジング・バド・パウエル』など後年大きく評価される“前衛”作品が粛々と録音されており、ジョージ・シアリング・クインテットによる「九月の雨」が大衆的人気を集めていた。

美空ひばりは12月に共立講堂で最初のリサイタルを行ない、翌50年5月に師匠格にあたる川田晴久(義雄)と共に「太平洋戦争で活躍した二世部隊である“第百大隊”の記念塔を建設するための基金を集める」ツアーに出る。ふたりはまずハワイで公演し、それからアメリカ本土に向かった。ライヴの目的が目的だけに、観客は日系人か現地に住む日本人が主であったと思われる。CDに収められているトーク部分も日本語である。
作品の流れは大まかに、美空ひばりソロ→川田晴久ソロ→共演の順。いくら歌がうまいとはいえ、美空ひばりはレコード・デビューしてから半年足らず。自身の持ち歌はまだ少ない(「東京キッド」は帰国後)。だから必然的にカヴァー曲の割合が多くなる。おかげで岡晴夫「港シャンソン」や市丸「三味線ブギウギ」(服部良一・作曲)や三門博「唄入り観音経」など諸先輩の持ち歌を、思いっきり自分のものにして表現する姿を、ここに確認することができる。笠置シズ子(シヅ子)の「ヘイヘイブギー」(服部良一・作曲)も、ちゃっかり歌っている。なぜ“ちゃっかり”かというと、一説によるとこのツアーの直前、笠置側からひばりに「私のブギを歌うな」という命令が発せられたからだ。歴史書をひもとけばわかるように、ひばりは48年に笠置と出会った。笠置も当初はこの“イミテイター”のことを面白がり、かわいがっていた。しかしその後の躍進、急成長が笠置側に何か面白くない気持ちを与えたのだろう。推測するに、「私のナワバリに入るな。ブギの女王は私だ」ということである。ゆえにか、ひばりは、笠置の主要ソングライターであった服部との接点を殆ど持つことがなかった。公式録音では1951年4月リリースの「銀ブラ娘」が唯一とされている。「なんでだ、惜しい」と思う。ひばりと服部のコラボレーションが実を結ばなかったこと、「ひばり・シングス・服部」的作品集が制作されなかったことは、日本ポップス史上における大きな損失だ。

聴きどころはカヴァー曲だけではない。「河童ブギウギ」も公式ヴァージョン(スタジオ録音)より、はるかに耳にスッと入ってくる。というよりも今、ひばり関連のディスクで聴ける「河童~」のそれは、オリジナル・アセテート盤がなくて磨耗した市販のSPレコードから再録したとしか思えないほど音質が酷い。そのライヴ・テイクがクリアな音で楽しめる。これは大変な快挙であろう。バック・バンドはトランペットの音程に難があるけれど、当時の食糧事情や、さほどリハーサル時間もなかったであろうことを考えると、決して責めるわけにはいかない。
川田によるエレクトリック・ギターの弾き語りが、この音質で楽しめることもかつてなかったのではないか。我が国にもスリム・ゲイラードがいたんだ、と感服させられること間違いなしだ。初代あきれたぼういずからミルク・ブラザース、ダイナ・ブラザースに至る彼の歩みは「日本エンタテインメントのコモン・センス」だと思うので各自お調べいただきたい。なぜ義雄が晴久になったのかについても。さらに、川田とひばりの結びつきについては、山平重樹・著『実録 神戸芸能社―山口組・田岡一雄三代目と戦後芸能界』が大いに参考になる。巧みな話芸、粋なユーモア。僕はこのCDで改めて川田に惚れてしまった。

また、本アルバムにはボーナス・トラックとして、貴重極まりない日本録音も収められている。なかでも僕が唸ってしまったのは、「波止場小僧」のプロモーション・テイク。地声とファルセットの境目がまったくない。信じがたいほど長く続くブレス、安定以外の言葉が永久に見つかりそうにないイントネーション。まったくもって見事だ。レコーディングは57年5月18日に行なわれた。その1ヵ月後の6月21日、“恩師”川田は50年の生涯を閉じている。

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