<連載>原田和典のJAZZ徒然草 第107回

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2018.07.18

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ニュー・アルバム『サニー』が大好評。オルガン奏者、
土田晴信さんにシカゴ時代のことやブルース、ソウル・ジャズの魅力をタップリ語ってもらったぜ


遂にこのコーナーにオルガン奏者が登場する。欧米では“Hal Tsuchida”として知られる土田晴信さんが取材に応じてくれたのだ。

ノーザン・イリノイ大学のジャズ・ピアノ科、デポール大学院のジャズ作編曲科を卒業し、ピアノをウィリー・ピキンズ(エディ・ハリスのヒット・アルバム『エクソダス・トゥ・ジャズ』に参加)、オルガンをトニー・モナコ(パット・マルティーノ小沼ようすけと共演)、クリス・フォアマン(ディープ・ブルー・オルガン・トリオ)に師事。交友を持ったミュージシャンにはジョン・ライト(プレスティッジに数々の作品を残したピアニスト)、ラリー・フレイジャー(ジミー・マグリフ・バンドの元ギタリスト)、ジョージ・フリーマン(ヴォン・フリーマンの弟、チコ・フリーマンの叔父にあたるギタリスト)など数知れない。シカゴでは11年間を過ごし、2013年から16年にかけてはドイツ・ベルリンを拠点に活動。その間の2015年にMonsレーベルから出した『Swingin ́with the Hammond Organ』は、日本の海外盤ショップでも話題を集めた。

2016年から日本に戻って活動を再開、演奏のほかに大学講師(慶應義塾大学でのジャズ・ヒストリー)としても多忙な日々を送る土田さん。シカゴでの貴重な写真の数々もご提供いただいた。先ほど発売された日本デビュー作『サニー』を楽しみつつ、お読みいただけると幸いだ。

土田晴信『サニー』


土田晴信『スウィンギン・ウィズ・ザ・ハモンド・オルガン』

--- 最初のジャズ・オルガン体験はなんですか?

土田 高校生の時に聴いたジミー・スミスの『ザ・キャット』です。“これ、かっこいいな”と思って、そこからどんどん関心を広げていきました。それ以前からブラック・ミュージックは大好きで、ブルース・ピアノやブギウギ・ピアノにも熱中していました。ロイド・グレンのような西海岸のサウンドも、ドクター・ジョンのようなニューオリンズ・サウンドも好きですね。最初はチャック・ベリーのバンドにいたジョニー・ジョンソンをたくさんコピーして、それからオーティス・スパンなどのブルース・ピアニストをコピーするようになりました。もともとピアニストだったので、シカゴに移住してからブルース・ピアニストとしてしばらく活動し、大学ではジャズ・ピアノ専攻でしたのでジャズ・ピアニストとしても活動し、しばらくしてからジャズ・オルガンを始めました。その後にオルガンをメインに活動するようになりました。


--- シカゴはオルガン・ジャズが盛んなのですか?

土田 というよりは、最初は自分の左手のプレイをもっと伸ばしたかったんです。ピアノのストライド奏法にもハマっていましたし。それに、シカゴに行くと「左手でベース・パートを弾いてくれ」というオファーがけっこう多かったんですよ。クラブ側から依頼のあったバンド編成がドラム、キーボード、ヴォーカルでベースがいなかったり。ちょっと(ベース・パートを)勉強しようと思ったときに、まっさきに浮かんだのがオルガン・ジャズだった。もともとジミー・スミスやラリー・ヤングの演奏はファンとして聴いていたんですが、本格的にオルガンに取り組もうと思って、トニー・モナコの教則DVDを手に入れました。全部採譜して研究しましたね。
ある時、ふと考えたんです。どこに行ってもピアニストはたくさんいる。しかもピアニストのプレイはベーシストに左右されることが大きい。ベーシストが曲を知らないと、やりたい曲があってもできなくなってしまう。オルガンはジャズにもファンクにもソウルにもブラジリアン系にも合うし、ベーシストに対する心配もいらない。なぜなら自分でベース・パートを弾けるので、自分の知ってる曲なら何でも演奏できる(笑)。素晴らしいじゃないですか。それから『元祖コテコテ・デラックス』を読んで、ドン・パターソンジョン・パットンベイビー・フェイス・ウィレットリチャード・グルーヴ・ホームズ、ジミー・マグリフ、チャールズ・アーランドルーベン・ウィルソンドクター・ロニー・スミスハンク・マーとか聴き漁りました。ひとりひとり本当に個性があって、違う。その個性がベース・ラインやハーモニーにも反映されていて、すごく面白い。これはオルガンで行くしかないなと思いました。


--- そしてシカゴでは数々の重鎮ミュージシャンとプレイなさいました。

土田 ギターのジョージ・フリーマン(1927年生まれ)とはずっと演奏しましたね。木曜日が出演日で、黒人のお客さんがみんなドレスアップして来る。当時僕は20代でジョージが80歳ぐらい、ドラマーが70歳ぐらい。お客さんもリアルタイムで黄金期のジャズを聴いているひとたちという感じで、僕は演奏していて往年の黒人ナイト・クラブにおけるライヴ盤の中にいるような気持ちになりました。お客さんはダンスを始めて、「人々と密着した音楽」という感じです。いろんなミュージシャンも遊びに来るし、休憩時間にはジュークボックスに入っているシングル・レコードがかかって、その中にはジミー・スミスもあればジミー・マグリフもあればアイズリー・ブラザーズもある。ジャズを演ってもブルースを演ってもファンクを演ってもみんな大喜びです。ジョージはグルーヴ・ホームズとレコーディングしているでしょ? そのアルバムからの曲を僕がちょっと弾いたりすると、「どこでそんな曲を覚えたんだ」って驚かれたり(笑)。
ジミー・マグリフのバンドにいたギター奏者のラリー・フレイジャー(1935年生まれ、2017年死去)は、僕がシカゴで組んだオルガン・トリオの最初のメンバーだったんです。輝かしい経歴を持った方ですけど・・・


--- 1962年ごろ、ジョン・コルトレーンで有名なレーベル“インパルス”に、シングル盤を残しています(「After Six / Before Six」)。もしこのときにインパルスからアルバムが出ていたら、いくらなんでももっとラリー・フレイジャーの名前は知られていたことでしょう。

土田 後年はドラッグやアルコールの問題で施設に入っていたとききます。そのラリーがある日、僕の演奏しているクラブに突如出現した。弾いてもらって、バンドにも入ってもらいました。ジョージ・ベンソングラント・グリーンのようなバリバリのソリストではないし、往年のテクニックはなかったけれど、バッキングが抜群に素晴らしくて、何も指示しなくても合わせてくれました。
僕が20代でシカゴに行ったときは、黒人街にもクラブもそこそこあった。そこにリーマンショック(2008年9月)が来て、ものすごい不況になった。黒人が集まるような、ギリギリの状態でやっている小さいクラブは一番最初にしわ寄せが来るんです。ジョン・ライト(1934年生まれ、2017年死去)というピアニストがいて・・・


--- 60年代初頭にプレスティッジ・レーベルからいくつかのアルバムを出していますね。

土田 彼にもとてもお世話になりました。毎年9月、レイバー・デイの頃に彼のバースデイ・パーティがあったんです。それはジャム・セッションも兼ねていて、ミュージシャンがいっぱい来て、ソウルフードを食べながら演奏するというものでした。そしていろいろなアドバイスをくれたり、多くのベテランの黒人ミュージシャンにも紹介してくれたりなど。


--- そしてウィリー・ピキンズ(1931年生まれ、2017年死去)からは、オリジナリティの大切さを学んだとうかがいました。

土田 ノーザン・イリノイ大学でジャズ・ピアノを専攻していた時に、本当にたくさんのことを教えてくれました。 「どこに行っても自分より上手いプレイヤーはいる。だからまずは心を落ち着かせて自分のできることを続けなさい。自分のスタイルがあれば、競争はなくなる。だから、自分の好きなものを追求して自分のスタイルを確立するように努力を続けなさい」 と言ってくれました。今でもこの言葉を常に思って続けています。自分が教えているとき、悩んでいる後輩にも言ったりします。
日本ではなぜかすぐに人と比較する傾向にある気がします。受験勉強などで小さいころから人と比べられ、そしてコンペティションなんかも大好きで、よく誰がどうとか比べる。それで自分が焦って落ち込んだりしますよね。でも人と比べるのはナンセンスなんだと思います。残念ながら生まれ持った能力の差はあるので、身体的に速く動いたり、すぐ吸収できたり、感覚的にできたりと多くの差はあると思います。しかし音楽はスポーツと違い競争ではないと思います。スポーツのように勝ち負けではありませんから。そんなわけで師匠が言ってくれた言葉を今でも思って続けています。自分のスタイルがあれば競争ではなくなると。あとはそれを好んでくれる人・そうでない人は他の人なので、自分のできることを追求するが大事ということ。おそらく彼がこう助言してくれなかったら今日まで演奏を続けていたかわかりません。それぐらい自分にとっての重みのある救いの言葉でした。 競争ではないと。


--- また土田さんは、ブルース系ミュージシャンとのエピソードもたくさんお持ちです。

土田 もともとシカゴに行った理由は、ブルースの本場のシカゴでブルース・ピアニストになりたかったからでした。シカゴに移住してすぐにセッションに行ったりライヴでシットインしたりしました。その後すぐビリー・ブランチに会い、ライヴをやっているから楽器持って来いということで行きました。その時は移住して間もなくて車がなかったので、ビリーのバンドのギターのジョニー・ヴィーが連れて行ってくれました。そして電子ピアノをセッティングしてバンドが一曲演奏した後に呼ばれて、ライヴの終わりまで弾くことになりました。そしてギャラまでもらいました。これがプロとしての初めての演奏でした。しかも黒人街でした。それからウエストサイドにある「ローザス・ラウンジ」のジャム・セッションに行ってリトル・マック・シモンズと会い、気に入られてジャム・セッションのホスト・バンドのメンバーになりました。その後にビリーのバンドで演奏していたきっかけで「ホープフェスト2000」というフェスティバルでボ・ディドリーと演奏しました。それからエディー・シー・キャンベルフィル・ガイなどに出会い演奏しました。ちょうど移住して一年ぐらいしてからニック・モスに出会い、彼のバンドのレギュラーメンバーになりました。彼はジミー・ロジャースのバンドにいたということもあって彼のバンドでたくさんのブルース・ミュージシャンと演奏しました。マディ・ウォーターズのバンドにいたパイントップ・パーキンスともフェスで一緒に演奏しました。ドラムのウィリー・ビッグ・アイ・スミスとも演奏しましたし、とにかくたくさんのシカゴ・ブルースを築いた人たちと演奏する機会がありました。


--- 当時はそうしたレジェンドたちが健在だったわけですね・・・。ぼくもギリギリでパイントップやロバート・ロックウッドJr.やホームシック・ジェイムズのライヴを見ることができて、大感激したものです。

土田 ツアーで全米各地にもバンドの車でいろいろと回りました。これでツアーの過酷さも知るのですが…。ツアーの最後にオレゴン州のポートランドのウォーターフロント・ブルース・フェスティバルで演奏(ニック・モスとフィル・ガイ)して、そのあとシカゴにノンストップで帰ってきました。2200マイルをバンド・メンバーと交互に運転しました。36時間ぐらいかかったのを覚えています。このツアーの後に、大学でジャズをやっていたということもあり、ジャズの方向にだんだんシフトしていきました。それでもツアー以外のブルースのライヴはジャズと共に続けていました。フィル・ガイが亡くなる寸前の最後のライヴが「テイスト・オブ・シカゴ」というフェスで、数年ぶりに会ったこともよく覚えています。これらブルースの演奏はすべてピアノでした。とにかく全米でいろいろなブルース・ミュージシャンと共演する機会を得たのが大きく、またこれが僕のルーツでもあるんです。これがジャズを演奏するときも、ブルース・フィーリングを大切にするように心がけている理由でしょうか。

ジョージ・フリーマンと演奏


クリス・フォアマンと共に


ビリー・ブランチ&サンズ・オブ・ブルースの一員として


フィル・ガイ、ニック・モスと演奏


--- みんな伝説の方です。

土田 多くの黒人ベテラン・ミュージシャンに「キャリー・ザ・トーチ」と言われたんですよ。聖火ランナーというか、たいまつを次の人に渡すという意味ですね。次の世代に自分が得たものを受け継いでいくというか。シカゴの黒人街で演奏し、先輩ミュージシャンから吸収したものを、今度は僕が表現していく番だと思っています。


--- 今、ひとくちにジャズと言っても本当に広がりがありますが。

土田 僕が取り組んでいきたいのは、やっぱりブルージーでソウルフルなジャズですね。アメリカに渡米する前、ピアノがメインだった頃に宇多慶記さんに習っていて、その時にいろんなミュージシャンを教えてもらったんです。なかでもすごく気に入ったのがピアニストのジーン・ハリス。2000年頃の日本では、(彼が参加していた)スリー・サウンズのブルーノート盤はほとんどCDリイシューされて手に入りました。あとはスリー・サウンズを解散してからのコンコード盤とか、とにかくジーン・ハリスのものは全部揃えました。シカゴのデポール大学院ではジャズ作編曲を勉強していて、ビッグ・バンドにも所属していたこともあってマリア・シュナイダーの『エヴァネッセンス』のスコアを勉強して分析して授業の課題として発表したり、ボブ・ブルックマイヤーのすごくコンテンポラリーなスコアにも取り組みましたが、いちミュージシャンとして自分に合うのは、やっぱり今のトリオ(ギター:小暮哲也、ドラム:二本松義史)でやっているような音楽ですね。ブルージーでソウルフルなジャズが好きという思いは、昔からまったく変わっていません。

土田晴信トリオ。『サニー』もこのメンバーで録音されている

--- そして土田さんのバンドは、ポップでキャッチ―ですよね。最新作『サニー』を聴いても、お客さんの笑顔をしっかり感じて演奏しているという気がします。ライヴを見ても、ファンからリクエストを受けて、それを即座に料理したりとか。

土田 ステージの進行に関してはシカゴにいたときの影響がものすごく大きいんですよ。セットリストは基本的にない。ミュージシャンと当日に出会ってリハーサルもないまま本番ということもあって、そうなるとどれだけ曲を知っているかが問われる。100曲は当たりまえ、どんどん増やさなければ次の仕事がない。師匠のウィリー・ピキンズは500曲とか600曲とか平気で知ってる。しかもシカゴでは地域ごと(黒人街、白人中心の郊外、観光客が集まるダウンタウンなど)にリクエストの傾向が違って、黒人街ではグローヴァー・ワシントンJr.の「ミスター・マジック」とか、チャールズ・アーランドのカヴァーで有名になった「モア・トゥデイ・ザン・イエスタデイ」をやってくれと声がかかる。


--- 日本のジャズ・クラブではなかなかプレイされない曲かもしれません。

土田 ただ、彼らと同じようにやると完コピになってしまうから、たとえばギターとオルガンでメロディを振り分けたりとか。コピーは悪いことではないけど、演奏するならやっぱり自分のフィルターをかけて出すべきですよ。「モア・トゥデイ~」にしてもアーランドのヴァージョンとは別に、スパイラル・ステアケースの歌う原曲を聴いて、自分はこういう風にやろうと考えたり。たまにジミー・スミスと全く同じようにテーマ・メロディをプレイするひともいますけど、でもアドリブ・ソロは自分のフレーズを弾くわけでしょ。それはやっぱり不自然なつながりだと思うんですよ。「この曲を自分ならばこうやる」というのを、僕は他人の曲を取り上げる時にいつも考えています。ウィリー・ピキンズが教えてくれた、自分のスタイルを持つことの大切さでしょうか。
アメリカのクラブでは、いかにお客さんに長く滞在してもらうか、いかにお酒を多くオーダーしてもらうかが大事なんです。その売り上げがすごく重要です。食事やお酒が進むバンドは、すごく経営者から好まれるんです。そういうことから、お客さんの雰囲気を感じ取って選曲をしたりするのは自然なんです。またリハーサルもなしで初共演ということもあるので、共演者を探りながらいかにアレンジしたように即席で演奏するかということを重視しています。この点は日本と大きな違いだと思います。でも僕はこういったことを日本でも続けていきたいと思っています。


--- では最後に、ご自身のアルバム以外で、「お勧めオルガン・ジャズのアルバム5枚」を挙げていただけますか?

土田 ジミー・スミスはよく知られているので、それ以外の作品を挙げましょう。グラント・グリーン『ブルース・フォー・ルー』(オルガン:ビッグ・ジョン・パットン)、ジャック・マクダフ:『ザ・コンサート・マクダフ』、ジミー・マグリフ:『ブラック・パール』、ソニー・スティットジャスト・ザ・ウェイ・イット・ワズ(ライヴ・アット・ザ・レフトバンク)』(オルガン:ドン・パターソン)、リチャード・グルーヴ・ホームズ:『オン・ベイシーズ・バンドスタンド』

グラント・グリーン『ブルース・フォー・ルー』(オルガン:ビッグ・ジョン・パットン)


ジャック・マクダフ『ザ・コンサート・マクダフ』


ジミー・マグリフ『ブラック・パール』


ソニー・スティット『ジャスト・ザ・ウェイ・イット・ワズ(ライヴ・アット・ザ・レフトバンク)』(オルガン:ドン・パターソン)


リチャード・グルーヴ・ホームズ『オン・ベイシーズ・バンドスタンド』


とにかく“オルガン・ジャズ・ラヴァー”という言葉に尽きる方だ。しかもリペアまで行なっている。構造的にもハモンド・オルガンを熟知しているのである。最新ライヴ・スケジュール等はウェブサイト(https://www.haltsuchida.com/)、ツイッター(@Hal_Tsuchida )をご参照いただきたい。オルガンに魅せられた男、土田晴信の快進撃は止まらない。

土田晴信