しばしばそう信じられがちなように、SONIC BOOM/SPECTRUMの音楽は実験的で難解であるわけではない。Taking drugs to make music to take drugs to…むしろ明快すぎるその目的の反映ゆえに、反応を極端に分けてしまう、換言すれば、自己のイメージの内側にのみ目的をもった音楽。
◆「僕は二度と生きてこの世界から出ることはできない」(SONIC BOOM‘Help Me Please’)
◆「次に会うときまでに/僕が死ぬようなことがあったら/そういうことって起こるものだからね/約束しておくれよ/天国の門の外で僕に会ってくれるって」(SONIC BOOM‘If I Should Die’)
「それぞれが、別様に」
いささか恣意的なやりかたかとおもわれるが、ここでは、ロラン・バルト1 の言説のいくつかを引用することにより、SONIC BOOMの音楽的特性を適切なかたちで言い当てていると思われる上記の発言、その正当性へのささやかな付言――裏付けとまではいえないにしても――を試みたい。2 そして、それらの言説を通して、おそらくは音楽の魅惑、あるいは語りえぬものの魅惑、その不可解さのまわりをめぐって仄めかされるなにかを少しでもすくいとることができれば、と思う。
1.フランスの批評家。彼の著作はその独特の断章形式と語り口、専門用語の頻雑にして特異な使用、扱われる主題の幅広さ、さらには定義されること固定化されることを嫌いつねに転位を繰り返すそのスタンスのためか捉えどころがなく決して難解でないとは言い切れない。ただイデオロギー/ドクサ/固着化する意味作用に対する一貫した批判的姿勢をひとつの通奏低音として、そこに読み取ることも可能である。また本稿ではおもに『テクストの快楽』、『恋愛のディスクール』、『第3の意味』、『彼自身によるロラン・バルト』を参照したことを付記しておく。そこでは、本論のより詳細で様々な追補を見出すこと、つまり相互関連的な読解も可能かもしれない。
2.本稿におけるバルトの引用はすべて〈〉に括ってある。
1.快楽/悦楽3
しばしばそう信じられがちなように、SONIC BOOM/SPECTRUMの音楽は実験的で難解であるわけではない。Taking drugs to make music to take drugs to…むしろ明快すぎるその目的の反映ゆえに、反応を極端に分けてしまう、換言すれば、自己のイメージの内側にのみ目的をもった音楽。
SPACEMEN 3からSONIC BOOM/SPECTRUM/E.A.R.へと、もしそう仮定できるのなら、彼の歩みは現代音楽にもノイズにも振れず/触れず、ただひたすらに「サイケデリア」という音の肌理 (テクスチャー) の夢の中でまどろみ踏み迷う。際限のない子供の遊戯のように。つまり、音の糸玉を手繰って感覚の快楽――いやむしろバルトの言をかりれば <快楽> と <悦楽>――を織り上げ、と同時にひきよせ、その手触りを愛しむ。
バルトによれば <悦楽> とは距離のない <快楽> である。それは主体において対象化されえないもの、なにものにも還元されえないもの、すなわち 「直接無媒介的なもの」であるという。それは、<非文化的> で <非社会的>、<アトピック (どこにも場所を持たない/場所の外にある) > で <欲望に答えるものではなく、欲望の不意を襲いむしろそれを圧倒し、迷わせ漂流させるもの> であるとされる。
SONIC BOOM/SPECTRUMの音楽。それが、論理的/学究的であることとも、前衛的 (戦争における前線から由来する語) つまり (反) 社会的/政治的であることともよそよそしい距離を保つ、純粋に感覚的であろうとする態度そのものに他ならないとすれば?
それはまた、こんなふうにも言えるだろうか。終わりも始まりもなく繰り返される遊戯。音のテクスチャーを織る存在=自己生成と、その手触りを愛しむ存在=自己喪失。欲望は満たされ、また不意を襲われ、そしてまた満たされ・・・そのつど主体は見失われ、あらたに見出される。だが、それは、人々が普通そう信じているあの唯一の「主体」であるのだろうか? 快楽的な主体は社会的な主体とは相容れない。むしろ真逆であることだろう。つまり、おそらく、そこにあらたに見出されるのはいつも倒錯した「(社会的/現実的) 不在の主体」なのだ。
こうしてSONIC BOOM/SPECTRUMの音楽は「主体の不在 (自己喪失) 」と「不在の主体 (自己生成) 」を行き来する/させる。それは (音の) 快楽/悦楽の両義性をあらわにする。
◆「SPACEMEN 3はドラッグの快楽性のみに終始せず、その両面を把握している。」(SONIC BOOM)
◆「またもや関係性の話だけど。均衡なものの半分だけを手に入れることなんてできない。」(SONIC BOOM)
3.『テクストの快楽』においてはplaisir快楽/jouissance悦楽という訳語が当てられている。バルトによると両者は必ずしも対立するものではなく、意味の境界は曖昧で不安定である。
2.音楽/狂気
<音楽家はいつも狂人である>――社会的主体の喪失がそのまま狂気であると言えるとすれば、バルトがロマン派の作曲家 (シューマンやシューベルト) を <ロマンティックな> <非今日的> で <時代錯誤> の主体であると呼び、それを <恋愛 (する) 主体> や <子供> とほぼ同列に並べて論じたこの発言はそのままSONIC BOOMの音楽性においても当てはまらないわけではない。事実、恋愛状態にある主体はある種の従順な盲目さ、子供のような無防備で社会性の欠落した純粋さを呈することがある4 。また自己の裡の正常な距離感覚を喪失し倒錯した <恋愛主体> は、ある意味 (自己の) 思い込みにより恋愛対象を偶像化し「不在化」しているとも言え、そのかぎりにおいて <恋愛主体> が成立しうるとすれば、すべての狂気がそうとは言えないにしても、音楽の孕むある種の狂気はまちがいな <恋愛主体> あるいは <子供> のそれと踵を接しているといえよう。
◆「ものごとは単純であればあるほどダイレクトで、しかも効果的なのさ。僕たちは "愛" というものをあらゆる側面から捉えて歌に込めようとしてきた。」(SONIC BOOM)
4.ただしすべてが同じというわけではない。バルトによれば<恋愛主体>は「子供のこころ」と「大人の欲望」をあわせもった両義的な存在である。『恋愛のディスクール』に詳しい。
3.音がめぐるもの/音をめぐるもの
しばしばそう信じられがちなように「音楽を聴く」とは音そのものを聴くことではないだろう。むしろ「音の鳴り」や「音の響き」を聴くということ。人々は身体や器官といった反響空間、あるいは思考や感覚を可能にする共鳴空間において聴いているのだとすれば? 人々はそれを耳で知覚する、と同時に心や器官でも感じとる。音の中を漂いながら、それを内面化し自己の裡に聴く。前者すなわち「音がめぐるもの」において陶酔した主体は解体し、後者「音をめぐるもの」において覚醒しあらたにあらわれる。つまり人々はまたしても「主体の不在」と「不在の主体」、意識と無意識の交錯点にそれ自身現前しえないイメージを聴いているということになるのである。そしてそれを可能にしているのが「自己のイメージの内側にのみ目的をもった音楽」であることは言を俟たない。
4.侵犯/遊戯
子供の人形遊び。それもひとりきりで。(SONICはフィギュア・コレクターでもある) 。そこではつねに侵犯の遊戯が繰り返されている。危険な遊戯。無心の?「操る人/演者」とその「観客」が一人の人格の中で次々と入れ替わる。舞台と観客席の境界はつねに侵犯される。そこでなにごとかが起こったのだろうか。物語性を欠く断片化した物語が始まる。それは終わることなくあらたに再び繰り返されるだろう。反芻される侵犯の境界。だが、それはある種の限界や彼方を指し示すあの「境界」とは違う意味を帯びている。
目に見えない幕や台座が、それを決定している。いつもあらたに引き直される捏造された虚構の境界線。それは子供がみずからの領域 (子供の領分) を主張するあの“たわいもない無根拠な戯れとしての”線引き、より正確を期せば、無根拠な根拠としての線引きである。逆説的にも、侵犯はつねに遊戯に随従する。永遠のワン・パターンが保証された「観客」席の幸福、自己崩壊なしに夢みることを可能にするあの閉じられた円環を描く劇的な二分法のドラマはここにはまったく見当たらない。 (結婚指輪に象徴されるような? ) 。意味を一元化し解釈の多義性を排除してしまう社会的/現実的主体の引く二項対立の線 (喩えば善悪や主客) とは対照的に、架空の線を引き、それを恣意的に侵犯しつづけることによって、物語は展開/転回し、あらたに反芻されることになるだろう。ほとんど場所とすら呼べない場=アトピア (アトピックな場) で。円環が侵犯され同じ場所 (現実的な主体) に回帰せず、つねに別の主体 (「不在の主体」、「主体の不在」) に回帰する。ということは、反復しつねに別の場所に回帰する螺旋運動が繰り返されている、ということになる。
5.逃避/逃亡
主体が喪失され不在の主体が見出されること。そのための条件とは?
社会性/反社会性という二項対立には属さない非-社会性/脱-社会性を繙くこと。あるいは「逃避」というよりむしろ「逃亡」。『もうひとつの場所』という名をもつ書物にル・クレジオの署名でそう記してあったように? ――「「逃亡」というのは、いったきり二度と戻ってこないわけでしょう? 」――それとも、ここでは「逃走すること」を「子供になること」と読みかえたドゥルーズを想起すべきであろうか。内に外を穿つこと、螺旋、すなわち無限の逃亡という戯れ。そこでは「どこへ? 」と「どこから? 」という問いかけは無化される。それは (帰る場所をもち、少しのあいだそこから逃れ、またそこへ戻ってゆく「逃避」とはちがって) 目的地も帰る場所もない、終わりも始まりもない彷徨/漂流であるからだ。しかし、同時にそれは死との戯れ、死に至る病、死がその稜線の両側に無限に開けた峰における境界線上の綱渡り、死の舞踏 (としての遊戯) に酷似する。ひきよせられた、このほとんど <狂人> のような極限/局限の身振り。
◆「僕は二度と生きてこの世界から出ることはできない」(SONIC BOOM‘Help Me Please’)
◆「次に会うときまでに/僕が死ぬようなことがあったら/そういうことって起こるものだからね/約束しておくれよ/天国の門の外で僕に会ってくれるって」(SONIC BOOM‘If I Should Die’)
反復しつねに別の場所に回帰する螺旋運動。(レコード盤の動き? )。それは、<快楽/悦楽> の主体、<恋愛主体>、<子供>、<狂人> をある不可解な共通する符号のもとに、ある戯れの極限/局限状況においてそれらを結びあわせるかのように振舞う。そこではたえまなく虚構の境界線が捏造され侵犯され、「不在の主体」と「主体の不在」が交錯し、「逃亡」が反芻される。始まりも終わりもないもの、行き先も帰る場所もないものの無限の回帰が繰り返されている。ここにSONIC BOOM/SPECTRUMの音楽性を語る際、たびたび引証される言葉や言説との類縁性を見出すことができるのは、おそらく偶然ではない。それはなぜか?
6.戯れ/賭け
今日、音楽について書くことができる、と言ったとき、あるいはそれが書かれうるとき、人はつねにいくぶん <時代錯誤> で <非今日的> な倒錯した存在になるのではないだろうか。この音楽を言葉にすることの不毛さと不可能さ。<音楽“について”でなく音楽の“周囲をめぐって”書くことしかできない> 。おそらくすべては、過剰な深読みか無邪気な感想であることを免れず、ということは解釈はすべて暴論となりうる、とすれば、否定神学のいう「アポファーズ」5 と呼ばれるものにしたがってしかそれは語りえないのかもしれない。 (それすら不可能かもしれない) 。
しかしながら、そのことは逆説的にある類縁関係を (ほとんど) パラレルに浮かび上がらせはしないだろうか? つまり、音について書く主体が言葉と戯れているとすれば、それは音と戯れる主体 (音楽を聴く人/作る人) と同様にはからずも <狂人> のあるいは <子供> の身振りを摸倣してしまっている、ということを。書くとは、(あるいは読むとは) 言葉 (と) の戯れであるとともに、また、無根拠な根拠としての白い紙の上での無限の線引きではなかったか? そしてそこにおいて、それは、読まれるや否や、書かれた深読みと感想の裏側に「倫理=創造」とでも呼びうる <時代錯誤> な信頼/思い込みを透かしてみせるのではないか。
SONIC BOOM/SPECTRUMの音楽。この純粋快楽への彷徨と漂流という「踏み外し」に、それが真実であるかどうかは別として、人は信頼に足るなにかを、<時代錯誤> とも思える「倫理=創造」を夢みる。
<恋愛主体>、<子供>、<狂人> 。彼らにもそれぞれの倫理が存在すると、そう言えないこともない。社会的/現実的にかえりみて、いかに倒錯し、身勝手に映るものであったとしても。それはむしろ人々が普通思い描く「倫理」よりずっと、純然で絶対的なものでさえありうる。 (だからこそそこには根源的な暴力、すなわちある種の危険と魅惑が両義的に孕まれてもいるのかもしれない) 。そしてSONIC BOOM/SPECTRUMの音楽 (の中) にも、(社会性とは無関係に規定されるそれぞれの世界の創造/想像における) 「内なる基準= (なにものか語りえぬものの) 魅惑に媚態で応えることの倫理」が存在していることは疑いえない。
「 (音楽の) 魅惑に媚態で応えることの倫理」、それは忘我の陶酔を齎すと同時にまた非社会的であるという絶対的な孤独の要請を受け容れることでもある。忘我と孤独、この夜の二重性において、孤独が裏塗りされた鏡に無限に反映する「幻影 (ファンタスム) =快楽/悦楽の戯れ」を人はSONIC BOOM (の音) の中に見出すのではないか。ひそかな愉悦? それこそ、「ドラッグをやらずに、愛することもせずに、自殺だってしないで」。その鏡はある繰言を“そのつどあらたに”反復するだろう――――――「それぞれが、別様に」。
その繰言は「踏み外し」の身振り/しぐさを摸倣することによって、企てる―――すなわち、反復し“そのつどあらたに”回帰する螺旋における「違ったレベル、型、表われ方の "愛" 」=「 "フィーリング" 」を「それぞれが、別様に」描き/描かれうるための魔法の呪文=錬金術として音が描く空間に無限のこだまとしてそれを響かせようとすること。要するに「侵犯の遊戯」を「賭け」に転ずること。「戯れにひそむ倫理」を「創造のための賭け」に転ずること6。音の「戯れ」を「戯れ」のまま「意識のレベルを変える」「賭け」に変成するために、曖昧なもの、語りえぬものにもっとも多くを語らせること―――――― 「それぞれが、別様に」。
5.apophaseギリシャ語で「否定する」に由来する言葉で、通常の認識手段によっては知りえないものをそれを否定することを通じて認識しようとする反語的否認。通常の場合「それは~ではない」という言説を積み重ねることによってなされる。
6.フランス語のjeuには「戯れ」と「賭け」の意味がある。このような意味の両義性を利用した記述(どちらとも取れるような、そしてそれによって両義的な解釈が可能になるような記述)によって文章を読みの多義性へと開く手法をバルトやジャック・デリダは意図的に用いた。それこそエクリチュ―ルの「戯れ」=「賭け」として。7.呪文/祈り
書くこと/聴くこと。あるいは言葉や音と戯れること。もしかすると人々は虚構の境界線を捏造し侵犯しつづける「“たわいもない無根拠な戯れとしての”線引き」を繰り返しているにすぎないのかもしれない、というふうに事象を捉え直してみること。だが、そこに好機が潜んでいるのではないだろうか。イデオロギーやドクサ、権力や歴史、物語の温床たる社会的/常識的なものに顕著な二項対立の絶対的な暴力。それに対して、喩えば、バルトがそうしたように、その図式を侵犯しつづけ、そこで戯れとしての遊戯を繰り返すことによりそれらを転倒させ <意味を宙吊りにする> ことを通して暴力性を回避することの可能性が示唆される。もちろんどのようであれ自らの言説はすでに暴力性を孕んでいるから、つねに線を引きつづけ、そのつどあらたな転位が繰り返さなければならないだろう。別の時間、別の仕方で、あるいは極限/局限において。そしてまた、表現も解釈も他者への暴力となってしまうのだとすれば、倫理もその例外ではない。
内に外を穿つこと。エドモン・ジャベスは言う―――「「私」が他者なのではない。他者が「私」である。この「私」を穿つこと、それが、われわれに課せられた責務である」7 。仮にそうであるのなら、それは穿たれた裂け目によって、円環が断ち切られ螺旋の逸脱を繰り返すことによって、自己が空無化され、他者の到来を受容する場が開かれるということを示しはしないだろうか。
別の時間、別の仕方で、「それぞれが、別様に」。この繰り返される呪文は他者を他者のままにしておく倫理でもあり要請でもありうる。と同時に、そこでは、まったくすべての他者が他者のまま等価に翻訳しあう可能性が仄めかされているのではないだろうか。デリダの言う「ポリフォニー」、複数性としての対話の可能性。この倫理の暴力性が回避される場、つねに別の主体の生成と消滅が繰り返される場、すなわち「戯れ (倫理) 」が「賭け (創造) 」に転じられる場において? 奇しくも、SPECTRUM『Refractions』の解説で「私」はSONIC BOOMのヴォーカルを「ただただ繰り返される呪文か祈りのよう」に響く、と書いた。呪文か祈りのよう? そのときこの“たわいもない”「戯れ」、ほとんど不可能な虚ろな「呪文」としての呟きは純粋な「祈り」、あるいは無私の「愛」にも似る。
これらは単なる深読みか連想 (言葉の戯れ) の範疇を免れないだろう。すべて (作品すなわち音楽や書かれたものもすべて) が事後的になされるとすれば、(マラルメの『骰子一擲』のように? ) 戯れなのか賭けなのか、戯れているのか賭けているのか、それは誰にも誰においても決定不可能ではあるのだが・・・。