昭和100年記念特別企画 diskunion presents レコードでたどる日本とジャズ

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2025.09.25

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昭和100年記念特別企画 diskunion presents 新連載スタート!

昭和のバンドマンの息子として生まれ育ち、そのルーツである日本のジャズについて探求を続ける音楽ライター原田和典が綴る「レコードでたどる日本とジャズ」



この2025年は「昭和100年」にあたるという。それを記念しつつ「昭和日本のジャズ」を録音物中心に振り返ってみようというのが、この10回連載の骨子である。

私はグループサウンズも好きなので1968年が「明治100年」だったということは、ザ・スパイダースのアルバム『明治百年、すぱいだーす七年』を通じて知っていたし、この時期から数年間にわたって続いた「懐メロブーム」が、晩年の東海林太郎榎本健一の精力的な活動ぶりと無関係ではないことも理解しているつもりだ。家具のようなカラーテレビのブラウン管に映し出される、「きょうつけ」(←北海道弁だと思う。直立不動の意)をして口を思いっきり開けて歌う東海林太郎の姿は、幼児である私の目にもかっこよく感じられた。「野崎小唄」は今も年に何度かは聴く。
では、この「明治100年」の時点で、「それまでの日本のジャズを振り返ってみよう」的な企画が雑誌なりレコードなりコンサートなりで企画されたことはあっただろうか?それなりに調べてみたものの、結論としては「ない」と言わざるを得ない。おそらく「明治の日本に、まだジャズは入ってきていなかったのだろう」と思われる。西洋文化の吸収は、鹿鳴館(1883年、明治16年に建設)の舞踏会で手一杯だったのか。
明治時代は1868年から1912年まで続いた。その時期、ジャズの原産地であるアメリカはどうだったのかと視線を移してみると、1865年に南北戦争が終結し、1912年にはジェイムズ・リース・ユーロップ率いるオーケストラがカーネギー・ホールで行われた慈善コンサートに登場している。ユービー・ブレイクが“音楽界のキング牧師”と呼び、晩年のランディ・ウェストンが自身のグループ“アフリカン・リズムズ”でトリビュートした、もっとわかりやすいところでは映画『ストーミー・ウェザー』の前半でも象徴的に描かれている、アフリカン・アメリカン音楽のアイコン的存在が、このジェイムズ・リース・ユーロップだ。私は、数々のレコーディングも残している彼や、1916年に「ダウン・ホーム・ラグ」をレコーディングしたウィルバー・スウェットマンが、録音が発見されていない神話だらけのバディ・ボールデン(バンク・ジョンソンの談話もどこまで信憑性があるのか)、グループ名に反してどこがオリジナルなんだかのオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドあたりと、せめて同等の重要性で語られるようになることを待つひとりである。
話を日本に戻すと、続く大正時代(1912年~26年)、ジャズは一気に広がりを見せる。「アメリカからレコードや譜面が持ち帰られたこと」、「アメリカでジャズ演奏に触れた音楽家が日本でも実践するようになったこと」、「フィリピンのバンドの来日」などが要因とされる。ちなみに当時の「海外旅行」は飛行機ではなく船、それも何か月にもわたっての航海である。いったいどれほどの費用がかかったことだろう。富裕層が日本にジャズの種をまいた、ということか。
大正13年(1924年)ごろになると、「新らしい外来語の字引」という、いまでいうところの「現代用語の基礎知識」的であろう書物に、こんな言葉が登場する。


【ジャズ、バンド(Jazz-Band 英) アメリカ黒人の騒がしい音楽隊。淫猥で野卑でさわがしい。】


昔は文章はエライ人が書くものだったから、この筆者もそれなりに権威のあるベテランだったはず。ゆえにジャズに「けしからなさ」を感じたのかもしれないが、若者の心に刺さるのが時に「淫猥で野卑」なものであることは50年代のロックンロール、60年代のエレキ、70年代のパンク等が示す通りだ。
「新らしい外来語の字引」から5年後の昭和4年(1929)には、塩入亀輔が「ジャズ音楽」という本を上梓した。クラシック評論家として知られる塩入がなぜジャズ書に取り組んだのか、それは「当時まだジャズ評論家がいなかったこと」、「いささか分野の異なる塩入の力を借りてでも、ジャズを広めようと思った出版社があったこと」、「塩入も恐らく、まんざらではなかったこと」などが足された結果であろう。ひょっとしたら今でいうところの「現代クラシック」的位置づけでもあったのかもしれない。紹介されている音楽家は、作曲家のW.C.ハンディ、ヴィクター・ハーバート、バンド・リーダーで指揮者のポール・ホワイトマンなど。この本についてはジャズイン誌の拙稿でも触れたのだが、「曲の組み立てが即興的であること」、「楽器の音色にユーモアが満ちていること」、「演奏家が独奏家としても完成していて、自由さも持っていること」、「最も洗練された舞踏音楽」という定義づけは、今もうなずけるものだ。とはいえ、たとえばポール・ホワイトマン楽団の「ジャズ」のどこに「即興」や「独奏の自由さ」を感じたのか、私には非常に謎であるし、1920年代の「即興」や「独奏の自由さ」を象徴する人物といえば、なんといってもルイ・アームストロングではないかとも思うのだが、個人的に調べた限り、少なくとも昭和10年ぐらいまでの日本のジャズ論壇には、ルイのルの字もない。もっといえばアフリカン・アメリカンのジャズはあまりにも伝えられていない。
昭和4年にはまた、ホワイトマンの著書『Jazz』が二つの会社から翻訳刊行されていて、クラシック雑誌「音楽世界」の10月号には「ジャズの王様、ホワイトマン」なる漫画が掲載されるなど、相当な人気だったことがわかる。ホワイトマン以外では、黒塗りの芸風をしていたこともあるヴォードヴィリアンのアル・ジョルスンも日本で人気の高い「ジャズ・スター」だったようだ。
加えて、やはり昭和4年の末に発刊された「音楽年鑑 昭和5年版」では「ジャズの流行は昨年あたりから絶頂に達し、ダンスホールの伴奏やカフェーの奏楽に過ぎなかったのが今日では音楽会にまで進出し、さらに蓄音機レコード界の寵児となってしまった」とあり、この時代、日本におけるジャズ熱のひとつのピークがあったことがうかがえる。
では、わが国で生まれた最も初期のジャズ・レコードは何なのか? 少し前までは日東ジャズ・バンド「ワラー・ワラー」、松竹ジャズ・バンド「印度の歌」がともに大正14年(1925)ごろの制作であろうと伝えられていた。が、「昭和3年、井田一郎バンドが浅草電気館出演をきっかけに松竹ジャズ・バンドと改名」という資料もあるので、それを生かすと「印度の歌」の大正14年説は成立しなくなる。私は上記2曲を1994年リリースのCD『日本ジャズ大系セレクト 新編SP時代のジャズ』で聴いてきたが、ほかにも入手のすべはあると思うので、どちらのセッションが先か皆さんの判断を仰ぎたい。私は「印度の歌」は電気録音ではないかと思う。日本初の電気録音は昭和2年に名古屋のアサヒ蓄音器商会(ツルレコード)が始め、その後、全国に広まったというのが定説だ。なお、「ワラー・ワラー」も「印度の歌」も、ホワイトマンがとりあげた楽曲のカヴァーである。
一大潮流となった、歌手+ジャズ・バンドによる、いわゆる“ジャズ・ソング”については次回で触れたい。


原田和典(はらだ かずのり)

幼少の頃よりポピュラー・ミュージックに触れて育つ。「ジャズ批評」編集長を経て、2005年からエンターテイメントに関する執筆活動を開始。ディスクユニオンThink!Recordsやユニバーサルミュージックの名盤復刻等において多数の解説を行っているほか、「ミュージック・マガジン」でJポップ/歌謡曲のアルバム評も担当。ミュージック・ペンクラブ・ジャパン理事。