<連載>原田和典のJAZZ徒然草 第115回

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2020.11.02

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超絶力作『ヒューマン・ライツ・トリオ』を出したヴァイオリン奏者ジェイソン・カオ・ファンに、ロフト・ジャズ時代の逸話からレジェンドとの交流、近年の様々なプロジェクトに至るまで、思う存分語ってもらったぜ

「マスクをして外出する」「どこかに出入りするごとに手を消毒する」ことにすっかり慣れてしまって、そうじゃないときはどうだったんだろうと思い出そうとしても混乱してしまう。8か月ぐらいの間に、まったくそうなってしまった。そして、今年は行けないこと間違いないニューヨークを思い出す。
ヴァイオリン奏者、作曲家であるジェイソン・カオ・ファン(1957年、米国イリノイ州生まれ)の生演奏を初めて聴いたのはいつだったか。「ヴィジョン・フェスティヴァル」だったかもしれないし、ブッチ・モリスのコンダクションだったかもしれない。非常にキメの細かいプレイをする演奏家という印象を持った。自分がニューヨークに行き出した初めの頃はリロイ・ジェンキンスビリー・バングも生きていて、各人各様の個性を噴射していたが、ジェイソンのプレイには力強さに加えて、どこか、かすみがたなびいているような感じがあり、そのロング・トーンがすごく気持ちよかった。
ジェイソンはこのところ、1年に1枚のペースで新作を出していて、そのどれもが聴きごたえたっぷり、音楽世界内への冒険へと連れ出してくれる。とくに二胡や琵琶を加えた“バーニング・ブリッジ”というプロジェクトは、「旧来のジャズのくびきから離れたところで、自身のアジアン・ルーツを盛り込みながら、それでもいかにジャズであり得るか」へのラプソディックな挑戦という感じで実に興味深い。しかも彼は、いわゆるロフト・ジャズ・シーン後期の住人でもあったのだ。
前置きが長くなった。才気に富み、たまらなくフレンドリーな男、ジェイソン・カオ・ファンの話に耳を傾けよう。

〈ジェイソン・カオ・ファン“バーニング・ブリッジ”のメンバー〉
左からジョセフ・デイリー(tuba)、
アンドリュー・ドゥル―リー(ds)、ケン・フィリアーノ(b)、ジェイソン(violin)、スティーヴ・スウェル(tb)、スン・リー(琵琶)、テイラー・ホー・バイナム(cornet)、ワン・ゴーウェイ(二胡)


--- 少年時代の音楽環境について教えていただけますか。

ジェイソン・カオ・ファン(Jason Kao Hwang) イリノイ州ウォキーガンにいた8歳の頃にクラシック・ヴァイオリンを始めた。そしてハイスクールでパパ・ジョン・クリーチジャン=リュック・ポンティマイケル・アーバニアク(ミハウ・ウルバニャク)らの演奏を“発見”した。その後、私はニューヨーク大学に進学し、ケヴィン・ジョーダンという男と友人になった。彼がブルーノート・レコーズの膨大なコレクションを私に聴かせてくれたんだ。ケヴィンと私は、当時ロフトであり余るほど行なわれていたジャズ・コンサートにも足を運び、多くのアーティストの創造性に触れた。

--- 大学ではフィルムとテレビジョンに関する学位を得ていますね。

ジェイソン とくに何の職業につきたいと考えていたわけではなかったけどね。18歳の頃はただ、生きていかなければ、と思うだけだった。最初に私が専攻したのは前衛映画、実験映画のたぐいだ。トム・パラッツォロ、スタン・ブラッケージ、マイケル・スノウ、マヤ・デレンを敬愛しているよ。

--- ジャズ・ミュージシャンとして活動を始めたのは?

ジェイソン 19歳の時、「ベースメント・ワークショップ」に参加した。今ではすっかり有名になったアジアン・アメリカン・コミュニティ・アーツ・オーガニゼーションが主催していたんだ。そのジャム・セッションで知り合ったひとりにウィル・コネルJr.(2014年死去)がいる。彼はもともとロサンゼルスでホレス・タプスコットと演奏していて、作編曲、アルト・サックス、バス・クラリネット、フルートの才能に富んでいた。私をニューヨークのロフト・ジャズ・シーンに案内し、音楽家としての生き方を教えてくれたのも彼なんだ。その出会いを機にウィリアム・パーカー、リロイ・ジェンキンス、ビリー・バング、ブッチ・モリスなど数多くの人々と知り合い、ウィル、ウィリアム、ゼン・マツウラとは“コミットメント”を結成した(1978年)。このコレクティヴが、私にとって正式な(=プロとしての)最初のジャズ演奏家体験となった。ここで培った友情と視野が私を変えたといえる。私がジャズを愛しているのは、サウンド面に限ったことではない。とくにリロイ・ジェンキンスやビリー・バングに耳を傾けていると、人生の可能性は無限なんだと教えられる気がするね。力が湧いてくるんだよ。

--- マイケル・C・ヘラーの著書『Loft Jazz』には、あなたが自主コンサートを企画運営し、フライヤーを配る風景が登場します。

ジェイソン その本は知らないな。マイケルは昔「ヴィジョン・フェスティヴァル」の仕事をしていたけれど、いまは学位をとるために復学しているはずだ。コミットメントは演奏する場があればどこへでも出ていったよ。ロフトでもコーヒー・ハウスでもギャラリーでもストアフロント(道路に面した店の正面)でもね。最初のギグは、歌手のジョー・リー・ウィルソンのロフト「レディース・フォート」で行なわれた。その1,2フィート向こうのボンド・ストリートにはサム・リヴァースの「スタジオ・リヴビー」があったね。ブッチ・モリスとはここで出会ったんだ。私は彼の“コンダクション”の最初期から参加しているよ。当時の我々、若いミュージシャンにできるプロモーションといったら本当に質素なものだった。フライヤーにウィートペースト(小麦で作られた接着剤)をつけて、街灯にペタッと張る。イースト・ヴィレッジ中の街灯にね。あとはギャラリーにフライヤーを置いてもらったり、食堂や書店の掲示板に張ったり。ほんのわずかなひとたちの連絡先を記したメーリングリストも持っていたけど、切手代がまた高くてね・・・・。Eメールが登場するずっと前の話だよ。

--- コミットメントの演奏は2010年に2枚組CD『COMMITMENT: The Complete Recordings 1981/1983』として集大成されましたが、ぼくはファースト・アルバムをLPで愛聴してきました。そのライナーノーツにある“The tradition is revolution because the tradition is love—  Sidney Bechet, Charles Parker, Billy Strayhorn, John Coltrane, Eric Dolphy, Dewey Redman—this is the tradition we encourage and hope to express. We wish to celebrate music with you.”というフレーズが美しいんです。

ジェイソン それを書いたのはエド・ヘイゼルだ。素晴らしい執筆家、偉大な人間性の持ち主で、本当に長い、長い間クリエイティヴな音楽シーンに自身を捧げている。

〈コミットメント『ザ・コンプリート・レコーディングス 1981/1983』〉


--- LPはフライング・パンダ・レコーズからの発売でしたが、これはどういう会社ですか? VictoからリリースされたCD『ザ・ファー・イースト・バンド』にも出てくる名称ですね。

ジェイソン コミットメントのLPを出していた頃は私の自主レーベルだった。しばらく経って、後続のプロジェクトでもこの名前を使ったね。トゥルー・サウンド・レコーディングスと改称して、しばらく経つかな。

--- ドラマー、ゼン・マツウラ(2015年死去)の演奏が聴けるのも貴重です。

ジェイソン タケシ・ゼン・マツウラは心の暖かな素晴らしいミュージシャンだった。録音当時、私は(マンハッタン)東6丁目の1番街と2番街の間に住んでいたんだが、ゼンはその1ブロック下に住んでいた。

--- そして、ベーシストのウィリアム・パーカーとは現在も親交が続いています。

ジェイソン ウィリアムは私に限らず、多くのひとにとって創造性の道しるべだと思う。彼のプロジェクトに数えきれないほど参加して、いつも刺激を受けている。彼の音楽は、いつも生命の鼓動を感じさせてくれるんだ。ウィリアムと(夫人でダンサーの)パトリシアは、「ヴィジョン・フェスティヴァル」だけでなく、さまざまなスペースで行なわれているコンサート・シリーズのプレゼンターでもある。彼らが多くの機会を与えてくれたからこそ、私は音楽を発展させることができた。パーカー夫妻との友情がなければ、今も音楽を作っていたかどうかわからないよ。

--- コミットメントのファーストLPが出た1981年は、いわゆるフュージョン・ミュージックが華やかな時期だったのではと思いますが。

ジェイソン 私も偉大なシンガー、フォンダ・レイ(代表曲「オーヴァー・ライク・ア・ファット・ラット」はデ・ラ・ソウルエリック・B&ラキムにサンプリング)のバック・バンドでフュージョンやロック・タイプの演奏をしたことがあるよ。彼女は一切譜面を用いず、どんなに手の込んだアレンジも頭の中に入っている。だから私は自分が演奏すべきパートを彼女に歌ってもらって、時間をかけてそれを採譜したんだ。彼女はどんな楽器のパートも歌うことができた。

--- 80年代の初頭にはジャズ、ロック、ファンクがごく自然に、だけど過激に融合して・・・

ジェイソン ロナルド・シャノン・ジャクソンのデコーディング・ソサエティが結成されて間もない頃、メンバーだったこともある。彼がオーネット・コールマンのプライム・タイム・・・当時ずいぶん物議をかもしたバンドだね・・・で培った経験を基に、またそれとは異なるサウンドの融合を試みたバンドだ。ただ私は、ある年長のメンバーとどうしても合わず、やめてしまった。ロナルドは偉大なミュージシャンだが、(その年長者に)耐えてまでバンドに残ろうとは思わなかったんだ。 

--- あなたはヘンリー・スレッギル『Too Much Sugar for a Dime』(93年)、ビリー・バング『Outline No.12』(82年)といった歴史的名盤にも参加しています。彼らとのエピソードは?

ジェイソン ヘンリーは自身の音楽に対して非常にはっきりしたヴィジョンを持っている。同時に彼は、バンドに対して最高位の信頼も寄せている。だから、演奏する我々の精神も高揚するんだ。いいテイクが録れたと思ったら、すぐにスタジオを立ち去ろうとする。「もう一度演奏し直すんじゃないかな」とバンド・メンバーが思っているときでも、録り直しをしないのが彼だ。今、ヘンリーの素晴らしさが広く認識され、高い評価を受けているのは本当に喜ばしいね。ビリー・バングは、“ディープ・オリジナル”だ。彼のプレイは驚くべき捻じれや回転を伴って、常に炸裂しているんだ。『Outline No.12』を録音したのは、ブルックリンにあるマーティン・ビシ(エンジニア)のスタジオだった。ラージ・アンサンブルのレコーディングにつきものの仕切り(ブース)はまったくなかったよ。でもそれが逆に我々のアンサンブルに強い化学反応をもたらしたんじゃないかと思う。ビリーの目の覚めるようなプレイ、カーン・ジャマルの輝かしいヴィブラフォンの響きを思い出すね。ビリーとはたくさん語り合う機会を得た。彼はハイスクール時代、陸上の花形だった。それから兵士としてベトナムで戦い、バンドスタンドに立つときは真のリーダーとなった。彼は人々といかに心を通わせていくか、クリエイトしていくかを知り尽くしていた。彼は皆を惹きつけるカリスマ的な光を放っていたんだ。

〈ヘンリー・スレッギル『トゥー・マッチ・シュガー・フォー・ア・ダイム』〉


〈ビリー・バング『アウトラインNo.12』〉



--- ここで最新作『Human Rites Trio』についてきかせていただけますか? 一度きいたら忘れられないユニット名ですが・・・・

ジェイソン ヒューマン・ライツ・トリオ(Human Rites Trio)と名付けたのは私だ。RitesはRightsの同音異義語で、政治的な意味もこめている。私にとって音楽は儀式、それも人間性と正義を肯定する儀式なんだ。神聖であると同時に、リスナーとミュージシャンが一体となって意識を高揚させていくような・・・。

--- 自由に漂うところもあり、スウィングするところもあり、ファンキーなところもあり、様々なパッセージが、スリルを伴って展開されていきます。

ジェイソン 私のバンドでも、ヒューマン・ライツ・トリオの音楽は特に冒険的だと思う。まずしっかり記譜されたパッセージがあり、そこに即興演奏のための基礎やきっかけとしてリズムとテクスチャーが提供されてゆく。即興の部分は奏者の自由に任されているが、即興とスコアから同時にエネルギーが発生している。私は作曲するとき、キャラクター、風景、音の物語を考えてコンセプチュアルに書いている。私は常に自分の人生に響くミュージカル・ランゲージを模索している。 様々なスタイルやジャンルが組み込まれているように感じるかもしれないが、つまるところ最も重要なのは、精神や魂であるというのが私の考えだ。その本質を押さえなければ、表面上の操作にしか感じられない音楽になってしまう。単なるパフォーマンスではなく、生存のための正義と選択の肯定、それをヒューマン・ライツ・トリオにこめた。ケンもアンドリューも最高の友人であり共演者だ。彼らはどこまでもオープンな耳とイマジネーションを持っていて、私の楽曲やプレイに対して、素晴らしい知識、技量、情熱で応えてくれる。アンドリューはエド・ブラックウェルの教え子で、彼に捧げるコンサートをしたこともある。エドの楽器を使ってね。エドの息子が、亡き父親のドラム・セットを特別に貸してくれたんだ。そのときのステージは殊にエモーショナルだった。アンドリューの演奏から、ミスター・ブラックウェルへの愛と感謝があふれ出していたよ。

--- いっぽう、2019年リリースの『Conjure』は、伝説的なピアニスト、ヴィブラフォン奏者であるカール・ベルガーとのデュオ・アルバムです。

ジェイソン 初めて会ったのは2012年頃だったと思う。カールが率いるクリエイティヴ・ミュージック・オーケストラに招かれたんだ。彼はもう80代だと思うが、演奏家、作曲家、教育家として今も最前線にいる。彼の音楽はすべてが前向きで、同時に、1960年代の音楽が持っていたエネルギーを私のような後続世代に伝えてくれる。たくさんのクリエイティヴな巨人たちが躍進した偉大な時代を垣間見せてくれるんだ。

〈ジェイソン・カオ・ファン『ヒューマン・ライツ・トリオ』〉


〈カール・ベルガー&ジェイソン・カオ・ファン『コンジュア』〉


--- ほかにも『Blood』(2018年)を出した“バーニング・ブリッジ”、2017年の『Sing House』、2016年の『Voice』など、それぞれメンバーが異なる様々なプロジェクトを率いています。

ジェイソン でも、同時進行というわけではないんだ。できる限り、マルチタスクは避けて、ひとつのプロジェクトに専念する。その場にある、目の前の事柄に全力で取り組む。ひとつのことをうまくこなすためには、それにすべてのエネルギーを注ぎ込む必要があることをわかっているからね。

〈ジェイソン・カオ・ファン バーニング・ブリッジ『ブラッド』〉


--- 創造に関して、最も心がけていることは?

ジェイソン 数年前、妻と一緒にヨガの「笑いの瞑想」に参加したときの話をしようか。参加者の誰もが異なる、オリジナルな笑い声を持っていた。そのひと固有の、力強く、エモーショナルな笑いが、妥協なしに表現されていた。「これが音楽だったんだ!」と思ったよ。演奏のときも作曲のときも、素直な心で楽しく取り組んでいけたらと思うね。

--- 今後のプランを教えてください。

ジェイソン パンデミック前には、シング・ハウス(アンドリュー・ドゥルーリーds、ケン・フィリアーノb、クリス・フォーブスp、カルン・リョンtb、ジェイソンviolin・viola)や、クリティカル・レスポンス(アンダース・ニルソンg、マイケル・T.A.トンプソンds、ジェイソンelectric violin・effects)のための曲づくりをしていた。今年中にレコーディングできることを願っているんだが、今のところは難しいみたいだね。パンデミックのせいで私たちの生活は信じられないほどの変化を強いられている・・・音楽が試され、育っていく場であるライヴ・コンサートは以前通りになる望みが薄く、ウィルスが長期間空気中に漂うような小さなスタジオは敬遠されていくことだろう。音楽の持つ意味も変わっていくと思う。家でオーヴァーダビングを重ねることによって素晴らしい創造を行なっているアーティストがいることは知っている、だけどジャズはライヴで、各人の自然発生的な反応によって創られていく音楽だと私は思っている。ヒューマン・ライツ・トリオのようなバンドは、この状況ではハプニングできないんだ。ここ数か月、私は猛練習と猛勉強の日々だ。ストリングスのための大作を書こうと計画しているし、オーヴァーダビングによるミサにも取り組むことだろう。

〈ジェイソン・カオ・ファン (photo by Bartosz Winiarksi)〉


ジェイソン・カオ・ファンのホームページ : https://www.jasonkaohwang.com/