<中古>スタジオ 紙ジャケット CD 5タイトル BOXセット

TAGES

特典:収納ボックス+特製CDR

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14,666円(税込)

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  • 紙ジャケ
レーベル
ストレンジ・デイズ
国(Country)
JPN
フォーマット
CD
規格番号
SNS3005BOX
通販番号
RT111110-TG-00
発売日
2011年12月20日
EAN
2299990582348
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商品詳細情報

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“北欧のビートルズ”と呼ばれる伝説のバンドTAGES
多くのファンが待ち焦がれた「トーゲス」幻の名盤5タイトルが紙ジャケで復刻!!

1960年代初頭に興った、ビートルズを中心とするポップ・ムーヴメントは、英国からアメリカへと渡り、アメリカのチャートを席巻するに至って、英国の侵略―ブリティッシュ・インヴェイジョンと言わしめた。いわゆるバンド・ブームの到来である。そうした流れは、すぐに世界的なものとなり、日本でもグループ・サウンズと言われるムーヴメントとなって多くのファンを魅了したのである。もちろんヨーロッパの非英語圏の国々も例外ではなく。各国の数多くのグループを排出した。ここに紹介するトーゲスもそうしたバンドの一つで、60年代のスウェディッシュ・ポップ・シーンを代表するアーティストである。

TAGES トーゲス・ファースト
2 トーゲス・セカンド
EXTRA EXTRA エクストラ・エクストラ
CONTRAST コントラスト
STUDIO スタジオ


各2800円 (税込)

 



トーゲスのデビューは64年に遡る。丁度その前年の63年にビートルズがスウェーデン上陸を果たし、イエテボリでコンサートを行い、またテレビ出演も果たした。そんなビートルズの姿を見ていたのが、トミー・ボールム(VO)、アンドレ・トペル(G,VO)、ダンネ・ラーソン(VO,G,K)、ショーラン・ラーゲベリ(B)、フレディ・スカンツェ(DR)の5人からなるバンド、トーゲ・スキッフル・グループだった。彼らは、ビートルズの歌い演奏する姿に衝撃を受け、音楽コンテスト“ザ・ビートルズ・オブ・ザ・ウエスト”に応募。そこで見事に優勝すると、すぐさまレコード会社と契約し、シングル「スリープ・リトル・ガール」をレコーディングした。同曲は、64年10月にスウェーデンのプラチナ・レーベルからリリースされた。スウェーデンのビートルズの呼び声の高かった彼らの曲はデビュー・シングルにもかかわらず、チャートの1位を獲得。彼らの存在は、瞬時にして多くの人に知れるところになった。その後トーゲスはプラチナ・レーベルに10枚のシングルと3枚のアルバムを残すが、67年にはレーベルをスウェーデンEMIに移し、新たなスタートを切る。

ちなみに2枚目の「アイ・シュッド・ビー・グラッド」(65年2月)、3枚目の「ドント・ターン・ユア・バック」(65年5月)そして4枚目となる「ザ・ワン・フォー・ユー」(65年8月)の3枚のシングルはいずれもチャートの2位を獲得し、8枚目の「イン・マイ・ドリームス」(66年7月)が再びナンバー・ワン・ヒットとなった。この曲でドラマーのフレディ・スカンツェがグループを脱退、代わりにトミー・トーシスがトーゲスに加わったが、一年と持たず、レーベルをEMI/パーロフォンへと移す67年初頭には、ドラムスは、ラッセ・スヴェンソンへとスイッチしている。 トーグスはプラチナ・レーベルからシングルだけではなく、アルバムも3枚リリースしている。順に紹介すると、ファースト・アルバムは「TAGES」で、発表は65年1月。セカンドは66年7月にリリースされた「2」、そしてプラチナ・レーベル最後の作品となるサード・アルバム「エクストラ・エクストラ」は66年11月に発売となっている。プラチナ・レーベル時代のシングル・ヒットの数々が物語るように、アルバムもポップでキャッチーな楽曲で溢れ、同時期に活躍したバンドと比較してもどの作品も頭一つ抜き出た仕上がりを誇っている。当時のスウェーデンには後にアバを結成するベニー・アンダーソンが在籍したヘップ・スターズ、もう一人のアバ、ビョルン・ヴァルヴァースがいたザ・フーテナニー・シンガーズという人気グループがいたが、トーゲスは、彼らに勝るとも劣ることはない活躍を見せたグループだった。

トーゲスがEMIに移籍したのは、彼らがスウェーデン以外の国でも活動をしたいと思ったからだ。彼らのクリエイティヴィティは、そうした彼らの欲求が正当的なものであるかのように、作品をリリースするたびに高まっていき、移籍を望むようになる頃には、先にも触れたようにファーストからサードに至る3枚のアルバムとシングルは、どれもポップなメロディで彩られ、彼らの才能が遺憾なく発揮されたものだった。しかし、EMIに移籍して発表された通産で4枚目にあたるアルバム「CONTRAST」には、それまでの彼ら作品以上の可能性が秘められていた。ビートルズで初期のビート・ポップを経てサイケデリック・サウンドへ移行する65~66年あたりの雰囲気と同等のものを感じさせるその仕上がりは、多くの評論家、ファンを驚かせた。EMI移籍後発表した通算で11枚目のシングル「エヴリ・レインドロップス・ミーンズ・ア・ロット」(67年2月)はそれを物語るような新たな時代のテイストが漂っていた。彼らの斬新な手法は多くの音楽ファンに受け入れられてチャート・アクションも良く、最高位2位を獲得。

続いて発表された「アイム・ゴーイング・アウト」(67年4月)も同じく2位を記録している。移籍後の3枚目のシングルとなる「シーズ・ハヴィング・ベイビー・ナウ」(67年6月)は、自粛の憂き目に遭いチャート・インは果たせなかったが、「トリート・ハー・ライク・レイディ」(67年9月)はベスト3に食い込むヒットとなった。ちなみに「シーズ・ハヴィング・ベイビー・ナウ」はティーン・エイジャーの妊娠をテーマとした歌詞の内容が一部で問題となり、ラジオ等であまりオン・エアーされなかったため、チャート・インこそしなかったが、楽曲そのものはクオリティの高いシングル曲だ。

トーゲスはその後も「ゼア・ア・ブラインド・マン・プレイング・フレディ・イン・ザ・ストリート」(68年5月)、「アイ・リード・ユー・ライク・アン・オープン・ブック」(68年11月)とコンスタントにシングルをリリースしていく。しかし、EMIに移籍してからのトーゲスは、シングルよりもアルバム制作に重きを置くようになり、グループはシングル・ヒットからアルバム・アーティストへと変貌していく。それは、まさに当時の先鋭的なグループがそうであったように、トーゲスもまたビートルズが67年6月に発表した「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」に多大な影響を受けたのであった。

67年?68年にかけて現地英国でも、スモール・フェイセス「オグデン・ナッツ・ゴーン・フレイク」、ホリーズ「バタフライ」、ローリング・ストーンズ「ゼア・サタニック・マジェスティーズ・リクエスト」、キンクス「ヴィレッジ・グリーン・ソサエティ」、マンフレッド・マン「マイティ・ガーヴェイ」、プリティ・シングス「SFソロウ」などなど、“サージェント・ペパーズ・シンドローム”と言うべきアルバムを中心とした、コンセプチュアルなトータル・アルバムが数多く制作発表され、ミュージック・シーンは「サージェント・ペパーズ」で打ち出された、サイケデリックな要素を前面にしたものへと急変していた。先にも触れたように、トーゲスはその流れをいち早く察し、「サージェント・ペパーズ」への回答ともいえるべきアルバムを制作する。それが67年11月に発表された通算で5枚目となるアルバム「スタジオ」だ。

このアルバムは、前作「コントラスト」でも試みられた音楽の新たな潮流を取り入れた作品で、前作で見られたコンセプトの輪郭をさらにはっきりとさせたものだった。もともとトーゲスはキンクスやザ・フーなどの音楽性の影響下にあり、いわゆるアメリカのR&Bに対するヨーロッパのR&Bグループを目指していたが、そこにサイケデリックな要素が加わり、後のプログレッシヴ・ロックへと繋がる革新的なサウンド・メイキングを行ったため、アルバム「スタジオ」は、自然と英米のグループと同じテイストを持つインターナショナル仕上がりとなった。トーゲスの楽曲は、もともとビートルズやホリーズなどに通じるポップなメロディが特徴で、そこにサウンド・エフェクトや逆回転が施され、彼らの出身地スウェーデンの民族音楽がブレンドされて仕上がったのが「スタジオ」だった。

発売の時期を考えると、彼らのサージェント的アプローチによるアルバム制作時期はかなり早い。「リボルバー」的な前作「コントラスト」から7ヶ月、ビートルズの「サージェント・ペパーズ」から約5ヶ月での「スタジオ」の発表は、他のどの国のアーティストと比べても、いかにトーゲスの音楽的感覚が進んでいたかを物語っているようだ。しかし、アルバム「スタジオ」における音楽的アプローチやその完成度を見ると、彼らのクリエイティヴィティはこの時期が絶頂期であったことがわかる。彼らは「スタジオ」をリリースすることによって、アイドルからアーティストへの脱皮をはかったのである。それを象徴するように、アルバム・リリース直後の68年末に、グループのヴォーカルでありフロント・マンとして人気の高かったトミー・ボールムがトーゲスを脱退してしまった。

残ったメンバーはグループの活動を続けることを決意し、新たな作品のレコーディングに入る。しかし、フロント・マンを欠いたままでのトーゲスとしての活動は難しいと考えた彼らは、グループ名をブロンド(BLOND)と改名。ニュー・アルバム「ザ・ライラック・アイズ」をこのブロンドの名の下にスウェーデンとアメリカでリリースした。この「ザ・ライラック・アイズ」は今でこそ60年代末のヨーロッパで開花したサイケデリアの傑作と言われているが、当時は大きなセールスには繋がらず、ブロンドは数枚のシングルをリリースしたのち、70年になって彼らはその活動に幕を下ろした。一足先にグループを抜けたトミー・ボールムは、ソロとして活動し、シングルも発表したが、トーゲス以上の成功を収めることは出来なかった。ちなみに、トーゲス?ブロンドを経たショーラン・ラーゲベリはその後プログレッシヴなロック・バンド、ケブネカイゼのメンバーとして、70年代という新たな時代のミュージック・シーンに打って出ることになる。