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 2012/01/24 原田和典のJAZZ徒然草 第74回

イベント「Evolving Monday Music」、そしてグレッグ・ウォードのライヴが新鮮な空気を運んでくれたぜ

ロウアー・マンハッタンにCSVセンターがある。CSVとはクレメンテ・ソト・ベレスの略。野心的な美術家や音楽家にパフォーマンスの場を与え、しかもそれをリーズナブルな価格でファンに届ける実に嬉しいスポットだ(Clemente Soto Velez - Educational & Cultural Center、107 Suffolk Street)。昨年秋からここで毎週月曜日に「Evolving Monday Music」というイベントが行なわれている。入場料は大人11ドル(学割あり)。ライヴは夜の7時半ごろから始まり、11時ごろまで続く。
僕の確認したところでは、11月28日の公演は詩人スティーヴ・ダラチンスキーの朗読とローレン・コナーズ(ギター)のデュオ、トランペット奏者ロイ・キャンベルのカルテット、サックス奏者マタナ・ロバーツとドラマーのチェス・スミスのデュオという3部構成だった。12月12日にはトニー・マラビー(サックス)+ジョン・エイベア(ベース。ヒバート、エベールと読むひともいる)+ジェラルド・クリーヴァーチェス・スミスの2ドラムスによるユニット“TUKOTUKO”のライヴも行なわれた。ほかにもマイケル・アティアスが登場したり、今なおヴォイスの可能性を広げ続けるジェイ・クレイトン(70歳!)がア・カペラ・アンサンブルで出演したりと、「毎週月曜、CSVに来れば、サムシング・ニューが体験できる」といわれるほどホットな場所になっている。どんなに寒くても暖房が入ることはないし(そもそも、そんな設備がない)、トイレの水の流れは悪い。しかし、ヒビの入った板の間に置かれた、いまにも壊れそうなパイプ椅子に座って、ちょっと前のめりになりながら音楽を聴くのは、これはこれでいいものだと思う。

フルミネイト・トリオ

僕は11月14日の「Evolving Monday Music」に出かけた。副題は「サウンド・コントラスト」。JFK空港からホテルに向かい、スーツケースをひとまず部屋に置いてすぐ、地下鉄に飛び乗る。Fトレインのロウアー・イーストサイド駅で下車し、南に向って飽きるほど歩いたら手書きのポスターが目についた。
最初に登場したのはフルミネイト・トリオだ。無理に日本語にすれば“爆発トリオ”または“雷光トリオ”といったところか。メンバーはアンダーシュ・ニルソン(ギター、スウェーデン出身)、ケン・フィリアーノ(ベース)、マイケル・エヴァンス(ドラムス)。2006年に結成された。ニルソンは弦を指またはピックで弾くのと同じくらい、弦を叩き、引っかき、ゆらすことにも情熱を注ぐ。エヴァンスは通常のドラム・セットのほかに、仏教系の葬式で使う鈴(りん)を大きくしたようなパーカッション、サラダボウルのような形状の打楽器、いくつものエレクトリック・パーカッションを並べ、スティックやブラッシュを使う以外にも薄いボール紙を丸めたものを楽器にたたきつけて音を出していた。そして腰には幅15センチはあろうかという太いベルトが巻かれ、そこにはいくつものスイッチやエフェクターがくくりつけられていた。演奏しながら余った手や指でベルトをいじると、その都度そこにつながっているエレクトリック・パーカッションへと指令が伝わるわけである。

マイケル・エヴァンス

目をつぶって聴いていると、なかなかシリアスでフリーキーなエレクトリック・サウンドなのだが(かなりの部分が記譜されていたようだ)、こまねずみのように手足を動かすエヴァンスの姿は実にユーモラスであり、いくつものコード(紐)がつながった太いベルトを締めてドラムスを叩いているところは、クレイジーキャッツの映画「クレージー大作戦」で、囚人役のメンバーを紐でつなぎながら演奏していた看守役・ハナ肇の姿ともダブってくる。
続いて登場したのはトー・スナイダー&イリプレシブル・スピリットというグループ。“抑制できない魂”と訳せばいいか。僕がスナイダーの名前を知ったのは今回が初めてだが、彼は新人ではない。もともとはブルースが大好きで、B.B.キングマディ・ウォーターズロバート・ジョンソンジミ・ヘンドリックス等に熱中していたという。しかし1981年にベニントン・カレッジに入学後、ビル・ディクソンミルフォード・グレイヴスの講義を受けて、より即興を重視する方向に進んだ。87年には“フル・メタル・レヴォリューショナリー・ジャズ・アンサンブル”という、かなりかっこいい名前のバンドを組んでもいる。イリプレシブル・スピリットを始めたのは2000年に入ってからのことで、僕が聴いたときのメンバーはスナイダー、エリック・サラザー(ヴァイオリン)、ラヴィッシュ・モミン(ドラムス、パーカッション)という3人編成だった。

トー・スナイダー

スナイダーは基本的に2台のギターを同時に演奏する。といっても、一時期のスタンリー・ジョーダンのように、それぞれの楽器をそれぞれの手でタッピングするわけではない。片方のギターを開放弦で鳴らしながら、もう一方のギターを普通に弾くか、もしくは両方を開放弦でジャラーンと鳴らす。そして時折、スキャットともハミングともつかない歌声を聴かせる。スナイダーによると、これは“VoiceGuitar”というコンセプトなのだそうだが、音楽自体はエスニック風のニュー・エイジ・ミュージックという形容がふさわしい気がした。
今回の滞在では、また新たに、瞠目すべきミュージシャンの生を聴くことができた。アルト・サックス奏者のグレッグ・ウォードである。1982年生まれというから今年でもう30歳だが、高年齢化が進むジャズ界では(5年後には消えちまいそうなガキもたまに出てくるとはいえ)、まだまだ若手の部類だろう。故フレッド・アンダーソンがシカゴ・サウスサイドで経営していたクラブ「ヴェルヴェット・ラウンジ」(今はない)のジャム・セッションで腕を磨き、ヴォン・フリーマンハミッド・ドレイクと共演したり、アーネスト・ドーキンズのシカゴ12、TBDインプロヴィゼーション・オーケストラ等で活躍してきた。休憩中にちょっと話しかけたところ、「AACMに所属したことはないが、彼らの姿勢には共感している」「いろんなミュージシャンから影響を受けているが、最大の存在をひとり挙げるとすればチャーリー・パーカー」という発言が返ってきた。

グレッグ・ウォード

僕が「コーネリア・ストリート・カフェ」(29 Cornelia St.)で見たときのメンバーはグレッグ、ジョー・サンダース(ベース)、デミオン・リード(ドラムス)の3人。サースティ・イアーから発売されたばかりの最新作『Greg Ward's Phonic Juggernaut』と同じ顔ぶれだ。グレッグの生音は「バカでかい」というほどではない。過剰なところのない、均整のとれた無駄のない響きといった感じだ。その音色で、あくまでも冷静沈着に、かっこいいフレーズをスナイパーのように打ち込んでいく。サンダースとリードの打ち出す図太いビートの上で、アルト・サックスのトーンが激しく上昇下降し、ハードボイルドこのうえない世界を繰り広げる。演目はすべてCDに入っているものだったが、ライヴゆえ1曲の長さは10~15分にも及び、2セットを浴びるように聴いた僕は快いカタルシスを覚えた。
チャーリー・パーカーを敬愛しているというグレッグだが、彼はまた、チャーリー・パーカーは古今東西ひとりしかいないということをしっかり認識している。だからフレーズを真似たり、パーカーの曲をカヴァーするようなこともしない。パーカーのコピーに取り組もうとして結局、その足元にも及ばなかった累々たる屍の山を横目に、グレッグは己の世界を着々と築いている。彼とパーカーの共通点をあえて、ひとつだけ見つけ出すとすれば、それは“フレーズのスピード感”に尽きるだろう。

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 2011/12/22 原田和典のJAZZ徒然草 第73回

ニューヨークのミュージカル、サーカス、レビューには「ジャズ」が溢れているぜ


今回はミュージカル、サーカス、レビューの話をしたい。
ニューヨークの大ホールといえば57丁目の「カーネギー・ホール」があまりにも有名だが、規模の大きさでは50丁目付近の「ラジオ・シティ・ミュージック・ホール」も負けてはいない。1972年、ニューポート・ジャズ祭が初めてニューヨークで行なわれたとき、ここにディジー・ガレスピーソニー・スティットデクスター・ゴードンローランド・カークゲイリー・バートンチャールズ・ミンガスアート・ブレイキー等が集まってオールナイト・ジャム・セッションを繰り広げたのを御存知の方もいらっしゃるだろう。最近ではアレサ・フランクリンがライヴをやる貴重な場所のひとつとしても知られている。その「ラジオ・シティ」で1933年(昭和8年!)以来、11月から12月にかけて行なわれているのが名物企画“クリスマス・スペクタキュラー”だ。アメリカのNo.1エンタテインメント・ショウとの呼び声の高いイベントである。
その大きな魅力のひとつが“ロケッツ”と呼ばれる女性ダンサーたちの歌とダンスだ。総勢100名はいるだろう。その人数の多さときたら、AKB48とSKE48とNMB48とSDN48、およびその研究生を一堂に並べたような感じか。しかしロケッツは歌も踊りも徹底してプロフェッショナルで、しかもみんなやたら脚が長い。応募条件は18歳以上、身長は168cmから179cmの間でなければいけない、とのこと。全米各地から激しいオーディションに勝ち残ってきた者だけがロケッツになれるのだ。あれほどの大人数なのだからメンバーどうし、うまくいかないときもあるだろう。しかし一度舞台に立てば、満面の笑顔で踊り、舞い、歌う。ここからブロードウェイ・ミュージカルや映画の世界に巣立っていくひとたちも多いのではないだろうか。
ほかにもサンタクロース役のひとや、親子役、妖精役のひとなど、とにかく登場人物が多い。そして皆、歌がうまい。セリフから歌に移り変わっていくタイミングがまた絶妙で「さすがミュージカルの国だなあ」と、しみじみしてしまった。伴奏はすべてオーケストラの生演奏。人数はホーン・セクションやストリングス・セクションも含めて50人ほどだろうか。彼らはステージと客席の間にある窪み(オーケストラ・ピットと呼ばれる)の中でプレイするのだが、偶然にも僕の席はこの窪みの近くだったので、オーケストラの動きが実に鮮明に見えた。ベース奏者はウッド・ベースとエレクトリック・ベースを兼任、サックス奏者はフルート、クラリネット、ピッコロ等を瞬時に持ち替える。彼らの仕事は譜面どおりに演奏することだから舞台の進行など見ていない(後ろでやっている演劇などいちいち見ない)。しかし指揮者のキューひとつで一糸乱れぬ音を出し、音楽を劇の流れにシンクロさせる。メンバーには元ブラッド、スウェット&ティアーズのベース奏者Leo Huppert、ボビー・コールドウェルのサポート・メンバーだったトランペット奏者Hollis Burridge、ローランド・ハナとの共演盤を出しているサックス奏者Hideaki Aomoriなどがいた。なるほど、いい音が出るわけである。
演目には「そりすべり(スレイ・ライド)」、キューピー3分間クッキングでもおなじみの「おもちゃの兵隊の行進」、ローランド・カークもカヴァーした「我ら3人の東の王」等が登場。ラストでは二人の奏者がホールの左右に設置された巨大なパイプ・オルガンの前に座り、荘厳なクリスマス・キャロルをプレイした。
次の日は「ビッグ・アップル・サーカス」に行った。会場はリンカーン・センター内にある特設テント。近くにはエイヴリー・フィッシャー・ホール(マイルス・デイヴィスが『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』と『フォー&モア』を吹き込んだ旧フィルハーモニック・ホール)やジュリアード音楽院がある。サーカスというと僕がすぐに思い出すのは小林旭の映画「さすらい」だ。しかしあのさびしさ、わびしさ、哀愁は「ビッグ・アップル・サーカス」にはなかった。レーザー光線がガンガン飛び交う、ド派手なスペクタクル・ショウなのである。「そんなの、どこがジャズに関係あるんだい」という声も聞こえてきそうだが、関係あるのだ。
プログラム中盤で、「アンフォゲッタブル」のイントロが聴こえてきた。そう、ナット・キング・コールナタリー・コールの親子架空デュエットで大ヒットしたヴァージョンである。そしてピエロ役の老人と、ド派手な衣装に身を包んだ太めのおばちゃんが登場する。実にクソまじめに(ここがポイント)。そして何食わぬ顔で、そのヴァージョンに合わせて口パクする。老人はニコリともせず、まるで自分がラスベガスでディナー・ショウをしているかのように陶酔しながら口パクする。おしておばちゃんは、これまた自身がナタリー・コールになったかのようにエレガントに口パクを続ける。もちろんニコリともしない。ニコリともしないから客席の笑いはさらに高まり、ワン・コーラス終わる頃には腹を抱える客も続出していた。
間奏の後、ピエロ役は客席の男性にマイクを渡す。その男性もさすがに心得たもので、ニコリともせず口パクする。歌う人が変わっているのに、歌声は相変らずナット・キング・コールなのだから、笑い声はさらに増す。つづいておばちゃんも別の女性にマイクを渡し、歌うことを続けるように要請する。もちろんその女性もエレガントな口パクを見せてくれた。歌が終わるまでに、4~5人の男女のところにマイクが回っただろうか。
あるていど笑い終わったところで、僕はハッと気づいた。
これって、「アンフォゲッタブル」という曲も、その歌詞も知っているということが前提で成り立っているギャグではないか。
子供たちはさておき、あそこでマイクを握っていた中年以上の男女は皆、この歌に馴染みがあるわけだ。そういう国なのだ、アメリカは。
その翌々日には、55丁目の「ニューヨーク・シティ・センター」で「コットン・クラブ・パレード」というレビューを見た。詳しくは「ブルース&ソウル・レコーズ」最新号の連載をご覧いただきたいのだが、1920年代後半から30年代前半にかけてハーレムの「コットン・クラブ」で行なわれていたレビューを再現するという試みである。伴奏はウィントン・マルサリス率いるリンカーン・センター・ジャズ・オーケストラ。ウィントンが出るということからもわかるように料金は高く、135ドルの席もある。僕はもうちょっと安い席で見たが、円高ドル安の今だからこそできる贅沢ではある。
場内が暗くなると、ラングストン・ヒューズに扮したブランドン・ヴィクター・ディクスン(2010年の「Unchain My Heart: The Ray Charles Musical」では主役を演じた)が舞台に現れ、ハーレム礼賛の詩をひとくさり詠む。続いてリンカーン・センター・ジャズ・オーケストラにスポットが当たり、デューク・エリントン初期の傑作「デイブレイク・エキスプレス」が演奏される。指揮はダリル・ウォーターズ、ウィントンはトランペット・セクションの一番左側で第一パート(いわゆるファースト・トランペット)を担当した。しかし彼のソロは概して短く、むしろマーカス・プリンタップの生きのいいトランペット・プレイが僕の耳を奪った。
ダンサーやシンガーはいずれもアフリカ系アメリカ人たち。何枚も自己名義のアルバムを出しているカーラ・クック、主にミュージカル畑で活動するカーメン・ルビー・フロイドの力強い歌声が印象に残った。男性4人が楽器の真似を交えながらユーモラスに歌うパートは、往年のミルス・ブラザーズを意識したのだろうか。タップダンサーたちが見せる驚愕のフットステップには、開いた口がふさがらなかった。ラストは全員がオーケストラの前で踊りまくる「ロッキン・イン・リズム」。「リズム&ブルース、ファンク、ヒップホップ、ラップの原点に触れた」というといささか大げさだが、僕はブラック・ミュージックの大木に頬ずりしているような気分で約2時間を楽しんだ。


 

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 2011/11/21 原田和典のJAZZ徒然草 第72回

うらぶれトランペット、トニー・フルセラのダークなトランペットが心に沁みるぜ

前回はアップタウン盤のチャーリー・クリスチャンジジ・グライスを紹介したところで終わった。今回はフレッシュ・サウンドから発売されたトニー・フルセラ(Tony Fruscella)とブリュー・ムーア(Brew Moore)の共演盤について触れたい。ところでFruscellaはフラッセラとは読まない。アクセントはセにつく。Brewも本当はブリューではない。ベロを口の中で内側に回して「ブルー」といわねば通じない。同様にKenny DrewもDrew Gressも「ドリュー」ではない。
それはさておき、このフレッシュ・サウンド盤のタイトルには驚いた。『The 1954 Unissued Atlantic Session』というのだ。つまりこれは1954年にアトランティック・レコードに入れた未発表録音であることを意味する。フルセラのライヴ音源が発掘されることは過去しばしばあった。しかし、1回のスタジオ・セッションがまるごと初登場というのは48年12月録音のセンチュリー・レーベル用の音源をまとめたスポットライト盤『Debut』以来ではなかろうか。これまでフルセラのアトランティック録音といえば『トランペットの詩人』というタイトルで国内盤の出たことがある『Tony Fruscella』が唯一のものとされており、同時に彼が残した唯一の公式リーダー・アルバムとしても認知されていた。しかしその前年、アトランティックにもうワン・セッションを吹き込み、その音源が録音から57年後にひょっこり出てくるとは。長生きはしてみるものだ。
『The 1954 Unissued Atlantic Session』に収められているアトランティック録音のデータは、以下のとおり。
Tony Fruscella(tp) Brew Moore(ts) Bill Triglia(p) Teddy Kotick(b) Bill Heine(ds) New York, March 22, 1954
演目は「Blues Medium」、「Minor Blues」、「Bill Triglia's Original」、「Slow Blues」、「Brew's Nightmare」、「Fast Blues」、「Blues Medium II」、「Minor Blues II」、「Bill Triglia's Original II」、「Brew's Nightmare II」、「Fast Blues II」、「Blues Medium III」
同じ曲名で「II」とか「III」とかあるのは、同じ曲の別テイクと考えていいだろう。そうするとレパートリーそのものは6つ。当時のフルセラとムーアがライヴでよく演奏していた「ブルー・レスター」の変奏曲のようなナンバーも登場する。1曲あたりにかかる時間は大体3~5分だ。ひょっとしたら10インチLP用のレコーディングだったのかもしれない(12インチLPが普及していくのは55年の下半期頃から)。ちなみにネスヒ・アーティガン(元コンテンポラリー・レーベル)がアトランティックのジャズ部門を担当するようになったのも55年のこと。それまでにも同社のジャズ作品はメアリー・ルー・ウィリアムスバーバラ・キャロルエロール・ガーナー、ウィルバー・ドゥパリス等、いくつかあるにはあったが、モダン・ジャズに本腰を入れるようになったのは彼が来てからである。しかし本CDの“54年3月22日録音”に間違いがなければ、ネスヒが企画に携わる前から、アトランティックはモダン・ジャズの制作に取り組んでいたということになる。
思えばフルセラほどレコーディングに恵まれなかったミュージシャンも珍しい。もっともマックス・ローチマイルス・デイヴィスのグループに所属し、ソニー・ロリンズとも共演しながら、『イーズ・イット』というリーダー・アルバム1枚しか音源が発見されていないロッキー・ボイドというサックス奏者もいるし(少なくとも彼は70年代初頭までは活動したようだ)、マックス・ローチに多大な影響を与えたといわれながらも現存する録音ではその腕前が確認できないに等しいアイク・デイというドラマーもいるが、フルセラだって録音運のなさということでは決して負けてはいない。
1940年代後半、マンハッタン47丁目に「ジャズ・レコード・センター」という店があった(現在ある店とは別)。しかし、そこのオーナー、ボブ・ワインストックの夢はレコードを売ることではなく、作ることにあった。そして48年の某日、トニー・フルセラを中心としたセッションを企画し、彼に打診する。しかし(故・油井正一さんの記すところによると)断られ、ワインストックはやむなくサイドメンのひとりとして参加予定であったリー・コニッツをリーダーとした吹き込みに切り替えることにした。しかしコニッツのリアクションもワインストックの期待とは異なるものだった。「リーダーは僕ではなく、師匠のレニー・トリスターノにしてください」。
49年1月11日、録音スタジオに集まった面々はコニッツ(アルト・サックス)、トリスターノ(ピアノ)、ビリー・バウアー(ギター)、アーノルド・フィシュキン(ベース)、シェリー・マン(ドラムス)。ワインストックは新レーベルの名称をニュー・ジャズと決め、間もなくプレスティッジと改めた。
もしフルセラがワインストックの提案に乗っていたら、彼はプレスティッジ・レーベルの名誉ある第1号アーティストになっていたはずなのに、なんということか。
『The 1954 Unissued Atlantic Session』録音後、フルセラはジェリー・マリガンのバンドに迎えられた。チェット・ベイカージョン・アードレイ(イァードリー)、ボブ・ブルックマイヤーの後任というわけだが、残念ながら公式吹き込みはない。2008年に出た「Fifties Jazz Talk: An Oral Retrospective」というインタビュー集によると、フルセラ入りのマリガン・カルテットが起動したのはニューポート・ジャズ・フェスティバルに出た1回だけだという。「彼はあまりにも自分の世界に閉じこもっていた。ラヴリーなプレイヤーではあったが、一緒にツアーに出るのは難しいと感じた」(マリガン)。
その後フルセラはスタン・ゲッツのバンドに入る。ヴァージニア州で録音されたアルバム1枚分の音源は確実に存在するのだが(僕は聴いたことがある)、現在は別セッションが『スタン・ゲッツ・アンド・ザ・クール・サウンズ』という作品で数曲、楽しめる程度だ。そのヴァージニア録音がリアルタイムで出ていたら、フルセラの株は現在のそれとは比較にならないほど上昇していたことだろう。
あんなに青白く、うらぶれていながら、しかし優しくささやきかけるようなトランペット奏者はフルセラの他にいない。巷には「高音を出さないからダメ」と評する者もいるようだが、ダメなのはフルセラではなく、そういう感性の持ち主だ。楽器にはいろんな吹き方、表現がある。自分独自の音を出し、自分独自の世界を築いてこそ、その奏者はアーティストたりえるのである。
まるでヌーヴェル・ヴァーグ映画に出てきそうなフルセラのルックスと生涯については、マシュマロ盤『ブルックリン・ジャム1952』の解説ブックレットが大いに参考になる。

       
 TONY FRUSCELLA / 1954 Unissued Atlantic Session  MARY LOU WILLIAMS / At Ricks Cafe Americain  ERROLL GARNER / Misty  GERRY MULLIGAN / Getz Meets Mulligan in Hi-Fi  STAN GETZ / Dear Old Stan Getz Vol.2(LP)

★近況報告
ディスク・ガイド ジャズ・トランペット』(シンコーミュージック・エンターテイメント)、いい感じです。こんなガイドブックは前代未聞だと思います。買っていただければ幸いです。『ディスク・ガイド ジャズ・ピアノ』、『ディスク・ガイド ジャズ・サックス』(シンコーミュージック・エンターテイメント)も大好評発売中です。ぜひぜひ、お願いします! 『猫ジャケ』、『猫ジャケ2』(ミュージック・マガジン)、ともに大好評発売中です。『原田和典のJAZZ徒然草 地の巻』(プリズム)もディスクユニオン各店で絶賛発売中です。リマスター完備、新規原稿50%増し(当社比)なので、ウェブ上の「徒然草」とは別物と断言してよいでしょう。個人ブログ「ブログ人」(http://haradakazunori.blog.ocn.ne.jp/blog/)、私も混ぜてもらっているウェブサイトcom-post(http://www.com-post.jp/)も展開中です。

 2011/10/17 原田和典のJAZZ徒然草 第71回

驚きの発掘音源が、ジャズ史の空白を少しずつ埋めていくぜ

アップタウンフレッシュ・サウンド。この2レーベルの執念には頭が下がる。よくもまあ、こんな貴重な音源を見つけ出してくれたものだ。今年もあと2ヶ月ちょっとしかない。その間、天地がひっくり返るような超弩級の掘り起こしがなければ、以下3点が2011年度ジャズ・リリース発掘部門のトップを争うことだろう。
その3点とはアップタウンから出たチャーリー・クリスチャンの『エレクトリック』ジジ・グライスの『ドゥーイン・ザ・ジジ』、フレッシュ・サウンドから出たトニー・フルセラとブリュー・ムーアの『ザ・1954・アンイシュード・アトランティック・セッション』である。僕はリリース情報を知っただけで腰を抜かし、商品を手にしたときに髪の毛が逆立ち、実際の音を聴いて憤死しそうになった。というのはいささか大げさではあるが、2レーベルのスタッフに心から心からお礼をいわずにはいられない。マイルス・デイヴィスビル・エヴァンスの発掘ものなら、大抵のレコード会社が触手を動かすだろうし、雑誌でもとりあげられるだろう。それなりの利潤も生まれるとも思う。が、ジジ・グライスの未発表が出たからといってどれだけのファンが買いに走るだろうか? 間違いなく赤字覚悟で、しかし使命感を持って意義あるプロダクツを送り出ているレコード会社は一億のリスペクトに値する。
と書いていたらディスクユニオンから『白昼の襲撃』と『さらばモスクワ愚連隊』のサウンドトラック部分を集めたCDが出ることが決定した。やったね、うほほーい。ぼくは『白昼~』の音を聴かせてもらったが、映画に採用されなかったテイク満載。昭和40年代の日本ジャズ史のブランクがまたひとつ埋まったといっていい。
ぼくは2本とも名画座で見たが、後者には鈴木勲富樫雅彦のセリフのやりとりがあった。前者には日野皓正クインテットの演奏シーンがあったし、なによりもヒロインの高橋紀子が良かった。高橋紀子といっても約40年前に引退してしまったので御存知の方は少ないかもしれない。最近再婚した俳優、寺田農の最初の奥さんである。女優時代のプロフィールによると趣味はボウリングとレコード(ジャズを聴くこと)。どんなジャズを聴いてたんだろう。60年代のことだからアルバート・アイラーとかジュゼッピ・ローガンを聴いていたのかもしれない。それともラリー・コリエルとかスティーヴ・マーカスだろうか、ハービー・マン白木秀雄か。気になる。
チャーリー・クリスチャンの『エレクトリック』は、実のところ新鮮味は薄い。実働3年間、70年も前に亡くなったミュージシャンの発掘音源など、そう簡単に見つかるものではないのだろう。しかしアップタウン・レコーズのスタッフは詳しい解説、驚くほど見事なマスタリングで、伝説の天才ギタリストの音を2011年という時代にヴィヴィッドに届けてくれる。冒頭の4曲はジェリー・ジェローム・ジャム・セッションという別名でコレクターには知られていよう。日本では70年代、CBSソニーの『チャーリー・クリスチャン・メモリアル・アルバム』で出たはずだ。録音は1939年9月24日ミネアポリスの「ハーレム・ブレックファスト・クラブ」、メンバーはクリスチャンのほか、ジェロームのテナー・サックス、フランキー・ハインズ(ピアノ)、オスカー・ペティフォード(ベース、当時17歳)。ハインズとペティフォードは当時まだ将来有望なローカル・ミュージシャンでしかなかった。ドラムスは入っておらず、ソロをとるとき以外、クリスチャンはリズム・カッティングに専念している。このリズム感がすごい。ザクザク、バリバリ、ツクジャーンと弦が鳴っている。それだけで本CDのリマスタリング効果がわかろうというものだ。もちろんソロも壮絶のひとこと、「アイ・ガット・リズム(テイク1)」におけるフレーズの尖り、スピード感はもうビ・バップそのものという感じがする。アンプからの音圧でクラブの窓や壁はビリビリ揺れたに違いない。それほど迫力あるプレイを聴くことができる。
5曲目以降はベニー・グッドマン・バンドの一員として吹き込んだエア・チェック音源。よってここで展開されるのはアメリカの国民的大スター、グッドマン氏の音楽である。へそまがりな僕などは「このやかましいクラリネットがなければなあ」と思うこともしばしばだが、クリスチャンのソロはたとえ4小節単位であってもギラリと光り、鋭い。複数のヴァージョン収められた「AC DCカレント」、「フライング・ホーム」、「シーク・オブ・アラビー」でもクリスチャンは毎回違うことをやっている。彼は決して若くして死んだから歴史に名を残しているわけではない。本当にプレイがすごいからこそ、今なおファンを熱狂させるのだ。
お次はジジ・グライスの『ドゥーイン・ザ・ジジ』だ。アップタウンのCDブックレットは、一度ケースから取り出すと再びケースに収められないほど分厚い。その中に膨大な情報が盛り込まれている。本作のライナーノーツも入魂そのもの。いくつか抜き出すと
●生年は1927年ではなく1925年である
●本名George General Gryce。芸名はそのイニシャルからとり、G.G.Gryce→Gigi Gryceとなった
●クラリネット奏者で教育者の弟、トム・グライスはニュージャージーで健在
●代表的オリジナル曲「Eleanor」は奥さんの名前。彼女との間には3人の子供を授かったが、63年に離婚している
●定説では「フルブライト奨学金を得て、50年代初頭パリに行き、ブーランジェやオネゲルに師事した」とあるが、その事実は確認されていない
●音楽出版社を持ち、ミュージシャン仲間の楽曲の著作権を管理していた
●61年頃、自主レーベル「ジジ・レコーズ」の設立に動き出したが、失敗
●63年に音楽界から退き、レストランのコックに転職。その後Basheer Qusimと名前を変え、小学校の教師になった。サウス・ブロンクスには彼の名を冠した小学校があるとか
とにかく最後は音楽界に絶望し、半ばブチキレてジャズ・ビジネスに絶縁状を叩きつけたも同然だったようだ。レコーディングで辿ることのできるグライスの軌跡は1953年(『クリフォード・ブラウン・メモリアル・アルバム』他)から61年のリーダー作『レミニッシン』までしかない。だがこのアップタウン盤によって、60~61年の動きが、かなり鮮明にわかるようになった。
『ドゥーイン・ザ・ジジ』はまず1961年、「バードランド」でのエア・チェックから始まる。エディ・コスタのヴィブラフォンを加えた6人編成(グライスはOrch-Tetteと呼んだ)の演奏だ。音源の出所はマニアにはおなじみ、ボリス・ローズ秘蔵コレクションかららしい。司会はシンフォニー・シッド、40年代にチャーリー・パーカーを紹介したときと変わらず「なんとか(リーダー名)・オーガニゼイション」とバンドを紹介している。「ア・プリモニション・オン・ユー」は今回初めて作品化されたグライスの自作であろう。11分にも及ぶ「ブルース・イン・ブルーム」も快調だ。彼がブルースをやると、必ずといっていいほど「ブルース・フォー・トゥモロウ」(グライス作。57年のセロニアス・モンク名義のセッションで初演。同名リヴァーサイド盤に収録)のメロディが出てくる。よほどこの一節が気に入っていたと思しい。
次に登場するセッションは、幻のジジ・レコーズから発売される予定だったものだ。やはりコスタを加えたOrch-Tetteによる演奏。3分の「ブルース・イン・ブルーム」と2分半の「ダンシング・ザ・ジジ」しか収められていないのは、この吹き込みがシングル盤用のものだったことを示しているのかもしれない。後者のタイトルは明らかにジュークボックスで踊らせることを念頭につけたものだろう。ジジというダンス・ステップがあるのかどうかは知らないが、ツイスト、ハリー・ガリー、ワトゥーシを売り出すような気分でグライスはこのシングルを世に放とうとしたに違いない。彼には、ある種のあせりもあったはずだ。かつての仲間、ベニー・ゴルソンとアート・ファーマーはジャズテットというバンドを組んで「キラー・ジョー」をシングル・ヒットさせた。かつてレコーディングにつきあったリー・モーガンアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズの花形奏者となり、かつて共演したセロニアス・モンクは大会社CBSコロンビアと契約した。オレも売れたい、とグライスが考えても不思議ではない。なお「ダンシング・ザ・ジジ」には、フルートがオーヴァー・ダビングされた形跡がある(データには記載されていない)。ぜひ皆さんの耳で御確認願いたい。
その次に出てくる6曲は、グライスが大手事務所、ウィラード・アレキサンダー・エージェンシーに聴かせるために制作したデモ音源。自分の音楽の売り込みに懸命になっていた姿がうかがえる。このデモがきっかけとなって(?)、彼はプレスティッジ/ニュー・ジャズにアルバム3枚を残すことができた。カーティス・フラー作「ダウン・ホーム」はホレス・シルヴァーのヒット曲「ザ・プリーチャー」風。もうオネゲルとかブーランジェとかいっている場合じゃない、ファンキーで行くんだという決意すら感じられる演奏だが、グライス自身のプレイはどう考えてもアーシー、ダウンホームという感じではない。相変らずクールでクリアーだ。だからファンキー調の曲を聴くと、彼だけ鍵穴にまったく別の鍵を指しているような印象すら僕は覚える。悩みながら必死にファンキーしようとしている姿は、55年の『ニカズ・テンポ』や57年の『ニュー・フォーミュラ』等で聴ける才気煥発プレイと比べれば比べるほど、痛々しく響いてくる。彼の芸風ならば、ファンキー路線よりモード方向に行ったほうが絶対サマになったと思うのだが・・・。
ラストの6曲はグライスにとっての最盛期といえる57年6月の収録だ。なんでもシグナル・レコーズがホテル・ニューヨーカー内で開催したパーティがTV中継されたときの音源だという。2年ほどでつぶれたレーベルが豪華パーティを開き、それをテレビが流していた(しかもメンバーは全員アフリカ系アメリカ人)というのも驚きだが、その音源が55年後に陽の目を見るというのはそれ以上に驚きだ。演奏は長いものでも2分台。しゃべりのバックでなんとなくグライスやデューク・ジョーダンのプレイが聴こえてくる、といった風なトラックも多い。番組では、音楽はBGM的扱いだったのだろう。ブックレットには見開きでこのときの写真が掲載されているが、映像は残っていないのだろうか。動くジジ・グライス、ぜひ見てみたいのだが・・・。
トニー・フルセラ&ブリュー・ムーアについては次回をお楽しみに!

   
 CHARLIE CHRISTIAN / Electric  GIGI GRYCE / Doin' The GIGI  TONY FRUSCELLA / 1954 Unissued Atlantic Session  日野皓正 / 白昼の襲撃(オリジナル・サウンドトラック)  黛敏郎/八木正生 / さらばモスクワ愚連隊(オリジナル・サウンドトラック)

★近況報告
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 2011/08/12 原田和典のJAZZ徒然草 第70回

いつもお世話になっております。マイルスさんの墓参りに行ってきたぜ

ニューヨーク話の続きに、おつきあい願いたい。
この2011年はマイルス・デイヴィスの没後20周年である。一度も面識はなかったが、CDの解説を書かせていただいたり等、いろいろお世話になっている。そこでぜひ墓参りしようと思い、彼の眠る「ウッドローン・セメタリー」に行ってきた。ブロンクスのウッドローンが最寄駅。マンハッタンからの地下鉄で行ける。

ウッドローン駅

とにかくだだっ広いので、正面入り口、向って右側にある霊園事務所で地図をもらう。従業員に「誰の墓参りに来たのか?」ときかれたので、ぼくは「マイルズ」・デイヴィスと答えた。そうしたら「ジャズ・ミュージシャンの墓、一覧」という表をくれた。マイルスの墓のまわりにデューク・エリントンライオネル・ハンプトン、イリノイ・ジャケーマックス・ローチジャッキー・マクリーンの墓があることがわかった。そしてコールマン・ホーキンスミルト・ジャクソンの墓は別エリアにあり、マイルスのエリアから行くには徒歩ではきつそうだ、ということもわかった。
次に写真や動画を撮る意志を持っているかどうか、と質問された。それをウェブサイト上に載せるためには、別の手続きが必要になるともいわれた。ウェブサイト上での公開承諾を得るために必要な書類を見せてもらったところ、けっこう長い英文が何ページも続いていたので面倒になり、「私はここで取った写真や映像をウェブには載せません」という項目にサインした。よって図版は掲載することができない。
従業員が語るところによると、事務所からマイルスの墓までは徒歩で20分ぐらいかかるという。
アメリカ人の長い足では、ということである。ぼくの短い足では何分かかるのだろうか。しかし霊園内には監視のためか、常に係員の運転する車が巡回している。これ幸いと、ぼくはヒッチハイクしてマイルスのところまで連れて行ってもらった。車を飛ばして7~8分かかっただろうか。ということは、どう考えても徒歩20分で着けるわけがない。
マイルスの墓は大きく、角張り、テカテカ光っていた。しかし質素なものである。日本の有名人の墓だったら、ただちにそのミュージシャンの顔写真やレコード・ジャケットやら生前の好物やらが山のように積まれるに違いないし、場合によっては故人の生前の演奏が流れてくるかもしれない。しかし、ウッドローン・セメタリーは静かなものだ。決して「ファンの観光地」ではなく、生前の彼らの足跡を知るものだけがそっと訪れ、しみじみと偉業をしのぶ場所なのだろう。マクリーンの墓には、まだ墓石がなかった。

ブラック・ショーティ&ザ・ハニーベアーズ

その翌日だったか、マンハッタン23丁目のマディソン・スクエア・パークで開催された「ビッグ・アップル・バーベキュー・ブロック・パーティ」に行った。といっても巨大リンゴやブロックを売っているわけではない。やたらスケールの大きい「ステーキ祭り」なのだ。「ジャズ・スタンダード」の姉妹店としても知られる「ブルー・スモーク」等、いくつもの名店が屋台を出して目の前でステーキを焼き、ビールやワインも特盛だ(いずれも有料)。週末の真昼間、それらを頬張ったり飲んだりしながら、無料の野外ステージで行なわれるジャズ、ロック、ブルース等のライヴに耳を傾けるのは実に楽しいものだ。ニューヨークでは外でアルコールを飲むことは原則として禁止されているのだが、この「ブロック・パーティ」は例外中の例外。かつてはジェームズ・ブラッド・ウルマー等も登場したそうだ。今年はダグ・ワンブル、ギター・ショーティ、デイル・ワトソンらが出演、これほどの面々をタダで見れる機会など、そうないはずだ。
ブラック・ショーティ&ザ・ハニーベアーズというバンドはまったくの初耳だったが、ホーン・セクション入りの大所帯で、ブルース・ファンク・ロックというべきサウンドをぶちかましてものすごい喝采を受けていた。アンコールも3回ぐらいやり、最後には「もう用意している曲がない」といいながら、大スタンダードの「ルイ・ルイ」を延々と続けた。いっぽう、ライヴ・ステージから少し外れたところでは、芸人やダンサーがパフォーマンスを繰り広げていて、こちらにも群衆がむらがっていた。

ストリート・パフォ-マー

「ブロック・パーティ」が夕方5時過ぎに終わったので、そのまま「55バー」(55 Christopher Street)のアーリー・ショウに向かう。ベース奏者、アイリス・オーニッグの率いるカルテットだ。他のメンバーはマイケル・ロドリゲス(トランペット)、クリス・バワーズ(フェンダー・ローズ)、ジェローム・ジェニングス(ドラムス)。殆どのレパートリーがアイリスの自作だったが、個人的にはどの曲も、彼女のベース・プレイも特に印象に残らなかった。マイケルの楽器の鳴りは今回も本当に見事だったが、彼がいなければ、このバンド、ワン・セット持たせるのが難しいのではないかとすら思ったのが正直なところだ。ぼくはトランペットの真横で身を乗り出すように楽しんだけれど、音量が豊かなのに全然うるさくない。そしてフレーズが尽きない。次から次へと、歌うような旋律が、楽器のベル(朝顔)から溢れてくる。毎年、聴けば聴くほど、さらに魅力を増しているような気がする。それが現在のマイケル・ロドリゲスである。

マイケル・ロドリゲス

続いて、クリスチャン・ハウズ・バンドのレイト・ショウも聴いた。メンバーはハウズ(エレクトリック・ヴァイオリン)に、アダ・ロバッティ・ブレッカー(テナー・サックス)、ジョエル・ニュートン(ギター)、エヴァン・グレガー(ベース)、ジョエル・ローゼンブラット(ドラムス)。メロディ担当の3人の足元にはエフェクターがずらりと並んでいる。演奏はテーマ・メロディこそ複雑なキメがあるけれど、アドリブ部分はほぼワン・コード、各ソリストのソロの間にはキメ・フレーズが入るというもの。乱暴にいえば1980年代のフュージョンを電子レンジで暖めたようなサウンドで、曲が進むごとにぼくはなんだかむなしくなってきた。そして、生音で十分いける「55バー」で、マイクやアンプでやたら音を増幅して、懐メロのような音楽をこれみよがしにやられてもなあ、と思った。もっともニューヨークでフュージョンを聴く機会などめったにないだろうから、貴重な体験をしたといえばいえるのだが。

 クリスチャン・ハウズ
 ジェローム・ジェニングス

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 2011/07/07 原田和典のJAZZ徒然草 第69回

平日の昼間っからニューヨークの教会でジャズを満喫してきたぜ

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約1年ぶりにニューヨークに行ってきたが、変化にとまどってしまった。どこがどう変化したのか、箇条書きにすると、
1) これまで「1日中使い放題ヴァージョン(といっても購入翌日の午前3時までしか使えない)」、「7日間使い放題ヴァージョン」、「30日間使い放題ヴァージョン」のあったメトロカードから「1日中使い放題ヴァージョン」が廃止され、しかも料金が値上げされていた。
2) ジャズ情報満載の無料新聞「オール・アバウト・ジャズ」がなくなり、かわりに「ザ・ニューヨーク・シティ・ジャズ・レコード」が発行された。
3) いままで入場料の中に飲み物代が含まれていた「ヴィレッジ・ヴァンガード」のシステムが改訂され、入り口で音楽チャージを払い、その後、飲んだ数に応じて飲み物代を清算するシステムになった。これまではペプシ社の炭酸飲料を仕入れていたのに、今はコカコーラ社の品揃えになった。
もうちょっと、ほぐして説明したい。メトロカードは、プリペイドカードの一種と考えていただければいいだろう。ホテルにチェックインすると僕はすぐに最寄の駅に出かけ「7日間使い放題ヴァージョン」を買うことにしている。これが24ドルから29ドルに上がった。5ドルアップは痛い。でも割引き制度も何もない、どこかの国のsuicaに比べりゃ、まだお得感がある。
ニューヨークにジャズ観光する者にとって「ザ・ニューヨーク・シティ・ジャズ・レコード」は必需品といっていい。もちろん向こうのジャズ界は開演直前にメンバー変更することもザラだから、そのへんを留意しておくにこしたことはないけれど、いわゆる「ジャズ用の場所」以外で行なわれているジャズ・ライヴも細かに告知してあるのは本当にありがたい。しかも会場の住所、最寄の地下鉄駅まで紹介されている。
ぼくは到着した当日、「ザ・ニューヨーク・シティ・ジャズ・レコード」を読み、セント・ピータース教会(619 Lexington Avenue at 54th Street)で行なわれている昼のジャズ・ライヴに参加することに決めた。そう、1982年にセロニアス・モンクの葬儀が行なわれた場所である。この教会では日曜日の夕方に「ジャズ・アット・ヴェスパーズ」、水曜日の昼間に「ミッドタウン・ジャズ・オン・ミッドデイ」、木曜日の午後に「ジャズ・オン・ザ・プラザ」などを催している(最後の2つは夏季限定)。いわゆるスタンダードなジャズを安価で(ときには無料で)聴けるのはありがたい。教会の中は音がとてもよく響き、マイク増幅する必要がないので、アコースティック・サウンドが満喫できるのもうれしいところだ。

アルヴェスター・ガーネット

「ジャズ・オン・ザ・プラザ」には、アルヴェスター・ガーネット(ds)のトリオが登場した。日本での知名度はまだ高いとはいえないが、ベティ・カーター(vo)のバンドを皮切りにアビー・リンカーン(vo)、バリー・ハリス(p)、レジーナ・カーター(vln)等のバンドで演奏を重ねてきた逸材だ。この日は、ベティ・カーター・バンド時代からの仲間であるというゼヴィア・デイヴィス(p)をフィーチャーしたステージだった。入場料は設定されていないが、7ドルのドネイションが推奨されていたので、それを入り口で支払った。
オープニングは「キャント・ウィ・ビー・フレンズ?」。かつてアート・テイタムエラ・フィッツジェラルドがとりあげたものの、最近は見向きもされなくなってしまったような“歌もの”である。この曲がまさか生で聴けるとは思わなかった。ガーネット・トリオのパフォーマンスは基本的にスタンダード・ナンバー中心。モニターがないので各メンバーが他メンバーの生音を聴き、アイ・コンタクトをしながら演奏を進めてゆく。ガーネットはブラシのほか、先を細く削ったスティックも使用し、じつにキメ細かにソリストを盛り立てていた。ラストではようやく、リーダー自身のオリジナル曲が登場。「ニューオリンズでエリス・マルサリスに学び、すっかり同地の音楽に魅了された。ニューオリンズが大好きになった。それだけにハリケーン・カトリーナの襲来には心を痛めた。最後に演奏するのは数年前、ニューオリンズの復興を願って書いた曲だ。ナット・アダレイがエリスと吹き込んだ『イン・ザ・バッグ』というアルバムに入っている、“ザ・ポパイ”というビートを基にしている」という彼のMCのあとに、快活なセカンド・ライン・リズムが始まった。ところでガーネットは学生時代、マーチング・バンドに所属していたそうだが、全曲ともレギュラー・グリップ(左手は、箸を持つようにスティックを握る)ではなくマッチド・グリップ(左手も右手もスティックを掴むように握る)だったのには少々驚いた。ドラム・ロールを演奏するのはレギュラー・グリップに限る、と考える僕の考えは古いのだろうか。

ノーマン・シモンズ(左)とルーファス・リード 

「ミッドタウン・ジャズ・オン・ミッドデイ」は教会前の野外広場で行なわれた。こちらは無料だ。僕はノーマン・シモンズのピアノが生で聴ける、と喜び勇んで出かけたのだが、情報を細かにチェックしていなかったのがいけなかった。主役はベースのルーファス・リードで、シモンズは単なる共演者だったのだ。リードは改造した愛器をPAシステムにつなぎ、テーマを弾き、存分にロング・ソロをとり、MCを延々とし、ときおりシモンズにスポットライトを当てた。どうやらリードがモテマ・ミュージックというレーベルから出している新譜のリリース記念会を兼ねていたようだが、僕が感動したのは、限られたスペースの中で存分にスイングし、歌い、輝いていたシモンズのピアノ・タッチである。カーメン・マクレエジョー・ウィリアムスアニタ・オデイら、数多くのシンガーから愛されてきた彼の歌心は今も健在。一日も長く健康でいてもらい、すてきなジャズを届け続けてほしいと願う。そして次はぜひ、味わい深い共演者とプレイするシモンズのスタンダード・ナンバーやブルースに接したいと思った。
アコースティック・サウンドが味わえるジャズ・クラブといえば、今も昔も「ヴィレッジ・ヴァンガード」がその頂点に位置するだろう。ここでマイクを使っている管楽器奏者がいたら、それは「イモ」だ。僕はここでビリー・ハート・カルテットの演奏を聴いた。メンバーはハート(ds)、マーク・ターナー(ts)、イーサン・アイヴァーソン(p)、ベン・ストリート(b)。このメンバーで活動をし始めてから6、7年は経つのではないだろうか。最近はルイス・ヘイズのキャノンボール・レガシー、ジミー・コブのコブズ・モブ、アル・フォスター・カルテットなどベテラン・ドラマー率いるレギュラー・グループの元気がいいけれど、「気鋭vsベテラン」のコントラストが最も際立っているのはハート・カルテットだろう。
御大のプレイは例によってドッカンバッシャンと盛大であり、個人的にはもうちょっと抑えてほしいと思ったが、今こんな叩き方をする若手はいないと思うので、そういった意味では貴重なものに接しているという実感はあった。ターナーの相変らずよく響き渡る生音(「彼の音はしょぼい」というのはまったく嘘である。しかしこの迫力をCDで再生しようとするのなら、よほど入念にチェックされたオーディオ装置が必要となろう)、くねくねと続く予想不可能なフレーズにはすっかりいい気分になってしまったし、イーサンの打楽器的なソロも「バンドの音楽のおもしろさ」に強く貢献していた。これでドラマーがジェラルド・クリーヴァーあたりになったら、さらに鋭く、燃え上がるサウンドへ変化するに違いないのだが・・・・。
それにしても「ヴィレッジ・ヴァンガード」で飲むコカコーラやスプライトには違和感がある。「ドゥユハブコーク?」、「ノー、ウィハブペプスィ」。「スプライッ?」「ノー、セヴナップ」というやりとりができなくなったのは淋しい。
(次回に続く)

ノーマン・シモンズ
ゼヴィア・デイヴィス











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 2011/06/03 原田和典のJAZZ徒然草 第68回

器用貧乏なんてとんでもない。ドン・エリオットはマルチでリッチなサウンドの持ち主だぜ

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 ドン・エリオットの『ジャマイカ・ジャズ』がようやくCD化された。フレッシュ・サウンドから出た『Jamaica Jazz + A Musical Offering』の前半に収められている。元のレーベルはABCパラマウントなのでユニバーサル系から出てもおかしくないのだが、どういうわけか以前『プライスレス・ジャズ・コレクション~ギル・エヴァンス』というコンピレーションCDに数曲が収められたきり、そのままになっていた。とにもかくにも、『ジャマイカ・ジャズ』全8曲がCDで聴けるようになったのは快挙だ。
もっとも超の字のつく名盤ゆえ(かつて瀬川昌久氏、岩浪洋三氏も大絶賛されていた)、未発表曲などもあれば探し出してほしかったし、リアルタイムではモノラル、ステレオの両方で出ていた。なにしろマイルス・デイヴィスとの『マイルス・アヘッド』、プレスティッジ盤『アンド・テン』などで創造のピークを極めていた(といっても彼は常に創造のピークにあったが)ギル・エヴァンスがアレンジを担当した1957年度最後の大仕事が、この『ジャマイカ・ジャズ』なのだ。いつかモノラル、ステレオの両ヴァージョンを収め、ギル・マジックの細部までがあますところなく聴きとれるような最高のリマスターで登場することを心から願う。それまでフレッシュ盤CDを穴が開くほど繰り返し聴いていたい。
ところで『ジャマイカ・ジャズ』というタイトルだが、別にレゲエやスカに取り組んでいるわけではない。ミュージカル『ジャマイカ』の楽曲をジャズで演奏しているという、それだけのことである。50年代後半、12インチ(30cm)LPが普及しはじめた。これはカッティング次第によっては、従来の主流であった10インチ(25cm)LPの2倍もの容量を収めることができた。半ば必然的に生まれたのが“以前以上の長時間演奏”、さらにはそれと逆の考えともいえる“トータル・アルバムもしくはコンセプト・アルバム”という発想である。かくして56年頃からブロードウェイ・ミュージカルの挿入曲をジャズ化したLPが次々と生まれた。もっともその背後には「ミュージカルの顧客に買ってもらえるかもしれない」、「ミュージカルとタイアップすることによってビジネス的に潤うかもしれない」、「12インチLPは高いので、(当時の)黒人層の購入は期待できない。だからミュージカルに通うような都会のそこそこ富裕な白人層にターゲットを絞る必要があった」などなど、ビジネス上の読みもあったことだろう。「ミュージカルをジャズ化したLPは当たる」・・・それが業界で認識されたのは、おそらくシェリー・マンのコンテンポラリー盤『マイ・フェア・レディ』がヒットしたあたりからではないだろうか。
ミュージカル『ジャマイカ』の作曲は、「オーヴァー・ザ・レインボウ」、「ストーミー・ウェザー」など数々のエヴァーグリーンを書いたハロルド・アーレンが担当した。しかし『ジャマイカ』関連ナンバーがヒットしたという話も、スタンダード化したという話もきかない。ジャズではエリオットのほかに、ピアニストのフィニアス・ニューボーンJr.もRCAビクターに『Phineas Newborn Plays Jamaica』というアルバムを残しているが(57年9月7日録音)、50年代のフィニアスはロイ・ヘインズと組んだ『ウィ・スリー』が超絶的に光り輝いていて、ほかは「あってもなくても構わない」というのが僕の正直な感想である。
話を『ジャマイカ・ジャズ』に戻そう。はっきりいってこのミュージカルの曲は“キャラが薄い”。しかしアレンジの力によって、それが宝石にも変わることをギル・エヴァンスは示してくれる。1トロンボーン、2フレンチ・ホルン、1バスーン、3フルート(オーボエ、イングリッシュ・ホルンも兼ねる)、1ギター、そしてピアノレス、コンガ入り。考えれば考えるほど不思議な編成だが、ギルが譜面を書くと、一見奇妙に思える楽器の組み合わせが幻想的なサウンドを生み出すうえで必要不可欠なものとなり、聴き手はただただ夢心地の数十分を味わうしかないのだ。そして主役、ドン・エリオットのプレイがいい。
彼はトランペット、メロフォン(フレンチ・ホルンに形状の似た楽器。しかしヴァルヴ操作が異なる)、ヴィブラフォン、マリンバ、打楽器、歌をこなす多彩な人物。よほど器用なのだろう、ラジオDJのアル・ジャズボ・コリンズが監修した『ジ・イースト・コースト・ジャズ・シーン』という作品ではミルト・ジャクソンテリー・ギブスらのヴィブラフォン奏者のモノマネを1曲の中で演じたことがある。56年の時点で早くも多重録音による一人コーラスを試み(『The Voices of Don Elliott』)、59年にはサッシャ・バーランド(胃腸薬アルカセルツァーのCMソング「No Matter What Shape Your Stomach's In」の作者)と“Nutty Squirrels”(気の狂ったリスたち)というユニットを結成、テープの速度操作によるチップマンクス張りの声でバップ・スキャットを披露した。このあたりの技術への関心、音響マニアぶりは、確実にエリオットの親友であるビル・エヴァンスにも受け継がれていると思うのだが・・・。60年代以降はミュージカルや映画(『陽気な娼婦 ハッピーフッカー』)の世界にも進出、ブロードウェイでは彼が音楽を書き下ろした「A Thurber Carnival」が上演されたこともある。「夜の大捜査線」、「ゲッタウェイ」、「ホット・ロック」などクインシー・ジョーンズが担当したサウンド・トラックにも、主にヴォーカリストとして参加している。
「ジャンル、楽器不問。なんでもやります、できます」的なエリオットだが、「器用」のあとに決して「貧乏」という言葉はつかない。ジャズをやるときはひたすらジャズに没頭するのが彼のいいところ。決してスタジオ・ミュージシャンの片手間仕事ではない。『ジャマイカ・ジャズ』が録音されたとき、彼は31歳になったばかりだった(1926年ニュージャージー州ソマーヴィル生まれ)。6歳でピアノを始め、8歳でアコーディオンも弾くようになり、ハイスクール時代にはバリトン・サックス、トランペットを演奏した。3歳年下のエヴァンス(ニュージャージー州プレインフィールド生まれ)とはプロ入りして間もない頃に知り合った。当時最高の人気を誇ったトランペット奏者、ハリー・ジェームズのオーケストラでも演奏したことがあるという。メロフォンを覚えたのは徴兵されてからで、軍楽隊ではチェット・ベイカーがトランペット、エリオットがメロフォンを担当したそうだ(なんと豪華な軍隊なのか)。
除隊後はマイアミ大学で編曲を学び、ヴィブラフォンも習得。50年にニューヨークへ戻った。ラジオ局WMCAの専属ミュージシャンとなり、爆発的人気を博していたジョージ・シアリング・クインテットにも在籍。53年頃からリーダーとしても積極的な活動を始めた。サヴォイ、ベツレヘム、RCAビクター、リヴァーサイド、ヴァンガード、デッカ、ABCパラマウント等に、「よくもまあ、こんなに」と思えるほどのリーダー作を残している。しかしそれらが日本で積極的に紹介された形跡はない。「50年代の白人=ウエスト・コースト・ジャズ」という単純な認識が今もはびこっているのだろうか。50年代のニューヨークには黒人ハード・バップと同じ、いや、それ以上の勢力でイースト・コースト・ジャズが存在した。その中心人物の中にエリオットやハル・マキュージックエディ・コスタがいて、そこから(結果的に)飛び立ったのがエヴァンスである、ということはもっと語られていいはずだ。
ふくよかな音色、巧みなメロディ・フェイク、さわやかなアドリブ。管楽器奏者としてのエリオットを味わうのであれば『ジャマイカ・ジャズ』に加え、ラスティ・デドリック(ソフト・ロック・グループ、フリー・デザインを生んだデドリック兄妹の叔父)と組んだリヴァーサイド盤『カウンターポイント・フォー・シックス・ヴァルヴズ(ダブル・トランペット・ドゥーイングス)』、“最も叙情的なアルト・サックス奏者”と火花散るやりとりを聴かせるファンタシー盤『ポール・デスモンド・カルテット・フィーチャリング・ドン・エリオット』(通称、『象のデスモンド』)も避けることはできないだろう。幸いにも以上2点は90年代にCD化されたことがある。探し出す価値はありすぎるほどある、と断言させていただきたい。
 

DON ELLIOT / Jamaica Jazz GIL EVANS / & Ten MILES DAVIS / Miles Ahead SHELLY MANNE / MY FAIR LADY PHINEAS NEWBORN JR. /


★近況報告
今、新著のプロジェクトが進んでおります。来月には御報告できると思いますので、ちょっとサイフのヒモをゆるくしてお待ちくださいね(♥)。『ディスク・ガイド ジャズ・トランペット』(シンコーミュージック・エンタテイメント)、絶賛発売中です。トランペットのガイド本はこれで十分。最高に楽しく面白く内容が濃いです。『ディスク・ガイド ジャズ・ピアノ』(同)も『ディスク・ガイド ジャズ・サックス』(同)も大好評発売中です。穴の開くまで読み返してください! 『猫ジャケ』、『猫ジャケ2』(ミュージック・マガジン)、『原田和典のJAZZ徒然草 地の巻』(プリズム)もディスクユニオン各店で絶賛発売中です。リマスター完備、新規原稿50%増し(当社比)なので、ウェブ上の「徒然草」とは別物と断言してよいでしょう。個人ブログ「ブログ人」(http://haradakazunori.blog.ocn.ne.jp/blog/)、私も混ぜてもらっているウェブサイトcom-post(http://www.com-post.jp/)もバリバリに展開中です。

 

 2011/04/18 原田和典のJAZZ徒然草 第67回

ビリー・バングのいないジャズの世界は、ちょっと淋しすぎるぜ

ニューヨーク・ダウンタウンを彩るアヴァン・ジャズ~インプロヴァイズド・ミュージックの祭典“ヴィジョン・フェスティヴァル”の開催が近づいてきた。ぼくもここ10年ほど毎年、通っている。そしてウィリアム・パーカーハミッド・ドレイクデイヴ・バレルなどの妙技に接して、「今年も彼らの生を聴くことができた」と、ミュージシャンと自分の健康を祝福するのだが、しかし。
ほぼ毎年ステージに立ち、当然ながら今年も登場する予定であったろう“ヴィジョンきってのお祭り男”の姿が、今年はない。いつも趣向をこらしたステージで観客を大いに盛りあげてきたビリー・バング(写真:上)がなんと、4月11日に肺がんのためハーレムで急逝してしまったのだ。あのアクティヴで、陽気で、ごきげんにスイングするヴァイオリンを聴かせてくれた彼がもうこの世にいないとは、本当に信じられない。昨年の9月には東京JAZZの野外無料ステージにも登場したというのに。僕はそのライヴを見に行ったが、演奏が始まると少しずつ、通りがかりのひとがどんどん、ビリーの音楽に吸い寄せられるようにしてバンドスタンドに近づいてくる。文字通りの老若男女が集い、小さな子供はリズムにあわせて笑顔で体をゆすっていた。ちょっとしたジャズ通になると、ビリー・バングという名前をきいただけで勝手にフリー・ジャズだのなんだのというところに“分類”してしまう。が、そんな知識を得ても体をゆすることを忘れてしまっては、どこか空しくないか。
「ビリー・バングの体調が芳しくない」という話を僕は、2月に来日したサックス奏者、ゼイン・マッセイを通じてきいていた。彼に「ウィリアムとシャノン・ジャクソンとあなたとのトリオでヴィジョン・フェスティヴァルに出たらすごいことになるんじゃないですか」と問いかけたら、「最近、自分はオランダで演奏することが多いからね・・・。もちろんウィリアムが声をかけてくれるなら飛んで出演するけどね」といい、「ところでビリー・バングなんだけど・・・」という感じで本段落冒頭の文につながった。僕は「なにかの間違いでしょう。昨年の夏に2回、彼の演奏を聴きましたが、あいかわらずハートウォーミングで最高でしたよ」と答えたのだが。それにしても享年63とは、昨今のジャズ界ではいかにも若すぎる。まだまだプレイしたかっただろうし、まだまだリスナーに喜びを与え続けてくれたに違いない。
ビリーはアラバマ州モビールに生まれ、ニューヨーク・ハーレムで育った。幼い頃からヴァイオリンを始めたが、別にクラシックの奏者を目指していたわけではない。スクール・バンドでサックスかドラムスを演奏したかったのに、学校の先生が「小柄な君にはこちらの楽器のほうが向いている」と、なかば強引にヴァイオリンを与えたのである。少年時代の経歴はつまびらかではないが、マサチューセッツにあるハイスクールを2年で中退した後(人種問題で相当、痛めつけられたらしい)、ニューヨークに戻ってブロンクスのハイスクールに入学。しかし卒業前に召集令状を受け取り、ベトナムの最前線に送り込まれる。まさに時はテト攻勢(68年1月30日夜から展開された北ベトナム人民軍及び南ベトナム解放民族戦線による大攻勢)。当時、歩兵だったビリーは、やがて軍曹手前まで“昇進”する。
除隊後のビリーは、音楽よりも政治活動に忙しかったようだ。革命を目指す結社(ウィキペディアには、underground group of revolutionariesとある)に属し、火薬の製造にもあたっていたともいわれる。しかし70年代中ごろから再び音楽活動を始め、77年にはサン・ラと共演。このあたりからプロのジャズ・ヴァイオリン奏者として認識され始めたのだが、そこに至る過程を僕は知らない。なぜヴァイオリンに再び取り組むようになったのか、どうしてこれで食おうと思ったのか、など、いつかしようと思っていた質問は山ほどあったのに。
初リーダー作は1979年の『Distinction without a Difference』。完全ソロ・パフォーマンスによるライヴ録音、もちろんオーヴァー・ダビングもテープのつなぎも(おそらく)ない。というか原レーベルのハット・ハット(現ハットロジー)は当時の超マイナー会社なので、後日スタジオで編纂する経済的余裕などないに決まっている。この時点からビリーのプレイにはものすごい底力がそなわっていた。だからこその無伴奏一発録りである。81年の『Rainbow Gladiator』と82年の『Invitation』は、日本でもディスクユニオンから解説付きのアナログ盤として出た(83年のことだったと思う)。両方とも当時の有名ジャズ誌では酷評されていたと記憶するが、なにしろ当時の日本ときたらフュージョン元禄だったのだから大目にみてあげましょうや。だがこの2作品、チャールズ・タイラーの絶品アルト・サックスも聴けるし、ドラムスは元セシル・テイラー・バンドのデニス・チャールズだ。ワイルドでエロチックなアコースティック・ジャズがたっぷり味わえる。セルロイド盤『Outline No. 12』はなんと、1984年にCBSソニー(当時)から発売された。当時ハービー・ハンコックの「ロックイット」の仕掛け人として大きく注目されていたビル・ラズウェルが携わっていたからこそのリリースであろうが、松田聖子『Tinker Bell』や大滝詠一『EACH TIME』と同じ年に、この冒険的な作品も彼らのヒット必至作と同じようにCBSソニー社の編成会議にかけられ、発売にゴーサインが出されたのかと思うと、当時のレコード業界はそれなりによいところだったのだろうなあと、なんだかしみじみしてしまう。
92年の『A Tribute to Stuff Smith』はタイトル通り、黒人ヴァイオリン界のスタイリスト、スタッフ・スミスに捧げたもの。スタッフは1930年代から60年代にかけて活動した奏者だが、弓の上部5分の1ほどを使って演奏する独特のスタイルの持ち主で、非常に強くアンプリファイドされた音を出した。おそらくアンプのトレブル(高音)はハウリング寸前まであげていたはずだ。しかしビリーはあくまでもいつもながらの優しく暖かい音色でプレイしている。スタッフとの共演歴を持ち、ビリーに飛翔の機会を与えたサン・ラがいちピアニストとして参加しているのも興味深い(彼は93年に他界する)。
が、それも90年代終わりから2000年代にかけて登場した『Bang On!』、『Big Bang Theory』、『Vietnam: The Aftermath』の前には影が薄い。いずれもカナダのジャスティン・タイム盤だが、このレーベルとビリーの相性がいいのか、それともビリーがかつてないほど充実していたのか、とにかく聴くほどにこちらの心に火がつくのを抑えられない。アドリブにおけるスイング感、スピード感はもちろんのこと、曲も親しみやすく、それでいて飽きさせない。まるで演歌のように聴こえるメロディ(「Fire in the Hole」など)もあるけれど、そのクサさが肉声のようなヴァイオリンの音色と絶妙に調和している。彼のライヴを最初に体験した日のこと、僕はたまらずこう質問したことがある。「あなたは演歌が好きなのですか?」。
ビリーの答えはこうだった。「演歌ってなんだい?」。僕がどうにかこうにか演歌なるものを説明すると、「私の音楽はフォーク・ミュージックでもあり、ブルースでもある。つまりピープル・ミュージックなんだよ。今度ぜひ演歌というものを聴いてみたいね」と続けた。そういえば演歌の世界には“ヴァイオリン演歌”というカテゴリーがあったなあ。ビリー・プレイズ・北島三郎、一度きいてみたかった(2010年のヴィジョン・フェスティヴァルでは「函館の女」のアタマ4小節にそっくりの曲を演奏していただけに)。
僕はビリーのプレイに出会うまで少なくないジャズ・ヴァイオリン奏者(と認識される人々)のプレイを聴いてきた。しかしそれらの何割かは明らかに“クラシックのヴァイオリン奏者に及ばなかったひとがジャズに転向しました”系の演奏であり、別の何割かはコーカサス系音楽から流れてきたものであり、ブルース・フィーリングやグルーヴ感を感じることは実に難しかった。もちろん、それはそれでいい。ステファン・グラッペリジャン=ルック・ポンティがブルージーにプレイしたら、そちらのほうが不自然だ。が、そこに飛び込んできたビリーの弾きっぷりは、僕の認識を大いに変えた。「ヴァイオリンでも、こんなに熱いジャズができるんだ」と、心から思った。そしてスタッフ・スミス、エディ・サウスレイ・ナンスクロード・ザ・フィドラー・ウィリアムスジョン・ブレイクドン・シュガーケイン・ハリス等に関心を広げることができた。おかげでヴァイオリン・コンプレックスはかなり改善されたが、それでもなお最も共感できるのはビリーやリロイ・ジェンキンズの演奏だ。
今ごろビリーはジェンキンズとヴァイオリン・トークを繰り広げているところだろう。ライヴ・アット・ザ・ヘヴンが行なわれるなら、ベーシストはシローネ(スィローンという表記が発音に近い)、ドラマーはスティーヴ・マッコールだろうか。僕もいずれそこに行く。それまで演奏を続けていてほしいものだ。 

       
Billy Bang/invitation  Billy Bang / Rainbow Gladiator  Billy Bang / A Tribute To Stuff Smith  Billy Bang / Big Bang Theory  Billy Bang/Bang On


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 2011/02/25 原田和典のJAZZ徒然草 第66回

ザ・ニュー・マスターサウンズもいいけれど、“本家”ザ・マスターサウンズの演奏も聴いてもらいたいぜ

UKのジャズ・ファンク・バンド、ザ・ニュー・マスターサウンズが人気だ。1999年結成、アルバム数は10点に及ぶ。僕もライヴに何度か行っているし、CDのライナーノーツを書かせてもらったこともある。が、彼らの名前を耳にするたび疑問に思うことがあった。なんでわざわざ“ニュー”という語句を頭につけているのだろうか、と。そしてひとりで、こう類推した。「彼らはきっとザ・マスターサウンズのファンなのだろう。もしそうでないとしても、グループの存在ぐらいは知っているはずだ。だからきっと“ニュー”を自分たちのバンド名に入れたに違いない」と。今回は“本家”、ザ・マスターサウンズの話をしたい。
兄弟でプレイするジャズ・ミュージシャンは意外なほど多い。ランディとマイケルのブレッカー兄弟、キャノンボールとナットのアダレイ兄弟、日野皓正と元彦の兄弟などはすぐに思いつくところだろう。彼らは両人ともスターになったからいい。が、「片方ばかりが有名で、もう片方はなんだかなあ」という兄弟も少なくない。ハンク・モブレージミー・モブレーミルト・ジャクソンアルヴィン・ジャクソンロイ・エルドリッジジョー・エルドリッジと書いても、後者を知っているファンはかなりマニアックな部類に入るだろう。ジャズ界で活躍した3兄弟となると、その数はさらに少なくなる。ハンクサドエルヴィンのジョーンズ兄弟とパーシージミーアルバートのヒース兄弟が知名度と実力を考えれば双璧だろうか。が、忘れてはならないのがモンク(次男)、ウェス(三男)、バディ(四男)のモンゴメリー兄弟だ。もっともこの3兄弟はウェスの才能が突出して評価されたゆえか“ウェスと、そのほかふたり”的に扱われることもあったともきく。が、あらためてモンクとバディが組んだ(ウェス抜きで)バンド、ザ・マスターサウンズの演奏を聴くと、「そんな簡単なものではなさそうだぞ。モンクとバディだって相当な才人なのに」と、いまさらのようにこぼしたくなる。
モンゴメリー兄弟はインディアナ州インディアナポリスに生まれた。ここはカー・レースの街であると同時に、かつてはジャズの温床だった。リロイ・ヴィネガーフレディ・ハバードスライド・ハンプトン、みんなここで育った。モンク・モンゴメリー(1921-82)の本名はウィリアム・ハワード・モンゴメリーという。エレクトリック・ベースの先駆者として資料や文献に名を残しているが、もともと彼はコントラバス奏者であった。別の仕事をしながら暇を見つけてはクラブで演奏しているところを認められて、当時最高の人気を誇っていたライオネル・ハンプトン楽団に大抜擢。以来、プロ・ミュージシャンとしての本格的な活動を始めたわけだ。
ある日モンクがハンプトン宅を訪れると、そこにはフェンダー社が持参した試作品のエレクトリック・ベースがあったという。「おまえ、明日からこれ弾け」というようなことをいわれたモンクは面食らったらしい。しかしアンプにつないで音量を大きくすることができる(ビッグ・バンドの轟音の中で自分の音を聴きとることができる)ことはベーシストにとってありがたかったに違いない。それに当時のハンプトン楽団はショウ性満点、R&B系のプログラムで沸かせることも多かった。ハンプトンは飛んで跳ねて熱気に油を注ぎ、やがてモンクはエレクトリック・ベースを持って、管楽器奏者といっしょに簡単な振り付けを演じるようになった。ところで1953年の「ダウン・ビート」誌にはエレクトリック・ベースを弾くチャビー・ジャクソンを捉えた広告が掲載されている。チャビーに罪はないが、いつだってクローズアップされるのは白人だ。
モンクがエレクトリック・ベースを弾くときに参考にしたミュージシャンは誰だろうか? なにしろ先駆者であるから、この分野に先輩はいない。よって他の楽器奏者を見て、自己のプレイを磨きあげるしかない。そこで大きな助けとなったのが、すでにプロになって久しかったギタリスト、ウェス・モンゴメリー(1923-68。本名ジョン・レスリー・モンゴメリー。モンク参加前のハンプトン楽団で演奏していた)のアプローチである。ウェスはピックを使わず、親指で弦を弾いた。モンクも同様に、親指を使ってエレクトリック・ベースを弾いた。以降、しばらくの間、エレクトリック・ベースは“親指で弾くのが当たり前”となる。カントリー畑のコントラバス奏者からエレクトリック・ベース奏者に転向した、いかりや長介においてもそれは例外ではない。ゆえに一部文献に“チョッパー奏法を日本で最初にやったのは、いかりや”とも記されているようだが、あれはモンク・モンゴメリーが始めた親指の腹で弾く奏法を堅実にやっているだけのことであって、別に親指の側面を弦にぶつけたり引っ張りあげているわけではない。
53年にハンプトン楽団を離れたモンクは故郷インディアナポリスに戻り、地元のエース的存在であったアロンゾ・プーキー・ジョンソン(サックス)のバンドで活動する。55年にはシアトルに移ったが、再び彼の名前が浮上するのは57年1月にピアニスト/ヴァイブ奏者バディ・モンゴメリー(1930-2009。本名チャールズ・フレデリック・モンゴメリー)と共に“ザ・マスターサウンズ”を組んで同地のクラブ「デイヴズ・ブルー・ルーム」に出演してからだ。9月にはサンフランシスコの「ジャズ・ショウケース」で演奏して絶賛を博し、間もなく同郷のベーシストであるリロイ・ヴィネガーがパシフィック・ジャズ社のリチャード・ボックに彼らを推薦、晴れてレコード契約を結ぶこととなった。ところでこのユニットにウェスは正式メンバーとして参加していない。理由はいろいろあるようだが、どんどんツアーして各地で演奏したいモンクやバディと、インディアナポリス以外での活動に興味がなかったウェスの間に温度差があったのではないか、とも伝えられる。
モンクとバディはリッチー・クラブトリー(ピアノ)、ベニー・バース(ドラムス。まだ現役活動中)と共にザ・マスターサウンズを旗揚げした。ウェスが入ればジョージ・シアリング・クインテットと同じ編成になったはずだが、彼の不参加でグループはモダン・ジャズ・カルテット(MJQ)と同一の楽器組み合わせとなった。バディはMJQのミルト・ジャクソンを尊敬していたので、自分がいうなればミルト役になったということは大きな喜びとなったろう。モンクのベース・プレイも堅実そのもの、当時はエレクトリック・ベース用のアンプも機材も未発達だったけれど(エフェクターもライン録りもなかった)、ふくよかで暖かい音を聴かせている。
パシフィック・ジャズ盤の内容は大きくふたつにわかれ、いっぽうは『フラワー・ドラム・ソング』、ウェスがゲスト参加した『キスメット』などのミュージカル曲集、もういっぽうは『イントロデューシング・ザ・マスターサウンズ』、『イン・コンサート』、『プレイ・ホレス・シルヴァー』などのハード・バップ路線である。この中ではシルヴァー集が最もエキサイティングだろう。選曲が「ニカズ・ドリーム」、「エンチャントメント」、「ブハイナ」などシルヴァー初期の作品に偏っているためか、ゴリゴリのファンキー・サウンドを期待すると当てが外れるが、白木秀雄が1962年に吹き込んだ『プレイズ・ホレス・シルヴァー』に先立つ快挙として、ぜひ見直してほしいところだ。シルヴァーはライナーノーツに、こう書いている。“他人に自分の曲をとりあげられることは、作曲家にとって大きなスリルである。大好きなマスターサウンズが私の曲を集めたアルバムを作ってくれたのは本当に嬉しいことだ。私はバードランドやニューポート・ジャズ祭で彼らの演奏を聴いたことがある。彼らの音楽はとてもよくリハーサルされていて、やり過ぎない程度にアレンジされていて、スイングして、ブロウする”。
しかしザ・マスターサウンズは59年一杯で一度活動を終える。バディ・モンゴメリーがマイルス・デイヴィスのバンドに加わることになったからだ。つまり当時のマイルス・バンドは御大のトランペットにジョン・コルトレーンのテナー・サックス、そしてバディのヴィブラフォンがフロント・ラインを務めたわけだが、今のところ音源は公開されていない。
ファンタジー盤『スインギン・ウィズ・ザ・マスターサウンズ』、『ア・デイト・ウィズ・ザ・マスターサウンズ』は活動再開後の60年8月と11月に録音された。ジャケットは大甘だが内容はピリリとスパイスが利き、ウッド・ベースに持ち変えたモンクのプレイも力強い。しかしザ・マスターサウンズはこれで役割を終えてしまう。やはり3兄弟で仲良くと思ったのかどうか、翌61年に入るとモンク、バディ(ピアノ)、ウェスは新ユニット“モンゴメリー・ブラザーズ”を結成。そのころからウェスが抜きん出て多忙になっていくのだが、3人は折をみて一緒にバンド活動を続け、それはウェスの急逝まで続くこととなる。

THE NEW MASTER
SOUNDS / Breaks From The Border
ELVIN JONES / Elvin! NAT ADDERLEY / Work Song MILT JACKSON / WES MONTGOMERY / Bags Meets Wes MASTER
SOUNDS / Play Horace Silver

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 2011/01/26 原田和典のJAZZ徒然草 第65回

ジャズ・ベースの真のパイオニア、ビル・ジョンソンについて書かせてもらうぜ

僕がジャズを聴き始めた1970年代、ベーシストのリーダー・アルバムといえば「妙なもの」が目立った。「なんでこんなに」と思えるほどベース・ソロが延々と続いたり、異様なミキシングでベースの音ばかりが目立っていたり、ベースはベースだから良いのにギターにケンカを売るような高音早弾きでとりあえず音数の多さで圧倒したり。なんだかずいぶんそういう作品を聴いてきた気がする。
が、いまやそれは過去の話となった。むしろジャズ界でいま一番熱く、バランスが良いのはベース奏者のアルバムではないか、と思えるほどだ。クリス・ライトキャップオマー・アヴィタルドリュー・グレスベン・ウォルフウィリアム・パーカーベン・アリソンジョン・エイベアなどなど。彼らはあくまでもベースを、ソリストを鼓舞する必殺の道具として使いながら、作曲家や編曲家としても瞠目すべきところを聴かせてくれる。リズムやハーモニー面の錨(いかり)を担うこと、それらとソリストを結びつける貴重な役割をも果たしていることを自覚する有能なベース奏者は、これからもどんどんどんどん増えていくに違いない。
ところで史上最初に名を成したジャズ・ベーシストは誰だろう。ジャズの歴史本を開けばジミー・ブラントンと書いてあるかもしれないし、ミルト・ヒントンと記載されているかもしれない。が、1920年代や30年代のジャズ・レコードにおけるベーシストの影はトランペットやクラリネット奏者に比べて著しく薄いといわざるを得ない。録音技術の制約もあったのだろう、「いったいどこにベースが入っているのか」と思えるような音源も少なくない。が、資料によると初代ジャズ王と呼ばれるコルネット奏者バディ・ボールデン(1907年に発狂したため、ディスク録音は残されていない。しかし“蝋管録音があるらしい”という都市伝説が消えることはない)のバンドを捉えた画像にもしっかりボブ・ライオンズというベース奏者が写っている。すべてのニューオリンズ・ジャズ・バンドが当初はチューバ(ブラス・ベースと呼ばれた)奏者にベース・パートを担当させていたわけでもないし、いっせいにチューバ吹きをクビにしてベース(ストリング・ベース)奏者を補充したわけでもない。

右から3番目 ビル・ジョンソン

2006年に発表されたCD『How Low Can You Go? Anthology of the String Bass』の解説書によると、前記ライオンズ(1869年生まれ)、ビル・ジョンソン(1872年生まれ)、アルバート・グレニー(1870年生まれ)、ビリー・マレロ(1874年生まれ)、ジェームズ・ジョンソン(1876年頃生まれ)、ヘンリー・キンボール・シニア(1876年頃生まれ)あたりがジャズ・ベーシストの草分けだという。しかしこの中である程度の数の録音が残っていて、ベースの音が確認できるのはジョンソンしかいない、といっていいだろう。彼は1972年に亡くなったそうだから数えでちょうど100歳まで生きたということになる。夜の世界で暮らすバンドマンが、人生50年の時代に100まで生きたのである。これはとんでもなくすごいことではなかろうか。伊能忠敬も人生50年の時代に55歳から測量を始め、70歳過ぎまで日本全国を歩いて地図のラフ・スケッチを作った(地図にしたのは彼を慕う面々)けれど、彼は規則正しい生活を貫いていたときく。長生きはしてみるものなのかもしれない。
なにしろバディ・ボールデンの5歳年上である。ジョンソンに関する資料はあまり現存していない。前述の解説書には「最初はギターを弾いていたが、やがてベースに転向。いくつものニューオリンズのバンドで働く」と記されているが、19世紀の人物だもの、それだけわかれば上等といえなくもない。出身地はアラバマで、音楽家としての活動はニューオリンズで始めたようだ。また1908年にはカリフォルニアのオークランドで演奏している。当時の楽器編成はコルネット、ヴァルヴ・トロンボーン、ギター、ベース、マンドリン(クラリネットやドラムスはなかったようだ)。ジョンソンはベースではなくマンドリンを弾いたとのことである。いったいどんな音楽が演奏されていたのか、それは後年、レコード上に刻まれたニューオリンズ・ジャズに似たものだったのかどうか、実に興味のあるところである。1914年から18年にかけては“オリジナル・クリオール・オーケストラ”というバンドを率いて演奏した(13年結成説もあり)。このバンドのメンバーはなかなかすごく、フレディ・ケパード(コルネット)、エディ・ヴィンセント(トロンボーン)、ディンク・ジョンソン(ピアノ、クラリネット)等、草創期のジャズを愛する者にはよだれの出そうな顔ぶれが揃っている。1916年だったか、ケパードはレコード会社から録音の話をもちかけられた。しかし彼は「自分の音楽が盗まれる」とこれを拒否、かわりに会社が目をつけたのは白人5人組のオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドであった。もしケパードがオファーを受け入れていたら、我々は世界初の(しかも濃厚な内容に違いない)ジャズ・レコードでジョンソンのベースを聴くことができたかもしれない。
“オリジナル・クリオール・オーケストラ”解散後、ジョンソンはシカゴに向かう。彼の技量にいち早く目をつけたのは“新ジャズ王”、コルネット奏者のキング・オリヴァーであった。当時の彼のバンドには時代の先端をいく面々が揃っていた。いわく当時22歳のルイ・アームストロング(コルネット)、その妻リル・ハーディン(ピアノ)、ジョニー(クラリネット)とベイビー(ドラムス)のドッズ兄弟などなど。ジョンソンはベースとバンジョーを弾いた。しかしこの時期はまだ、いわゆるラッパ録音の時代であり(スタジオに設置された巨大なラッパに向かって演奏し、その振動が原盤にダイレクト・カッティングされる)、ベースの音を聴き取るのは困難を極める。このころのジョンソンの活躍としては一も二もなく、「ディッパーマウス・ブルース」における、ユーモラスな合いの手“Oh,play that thing”を挙げるしかなさそうだ。
ルイは24年にバンドを去ってニューヨークに向かってフレッチャー・ヘンダーソン楽団の一員となり、25年に入るとレコーディング・コンボ“ホット・ファイヴ”でジャズの歴史を作り出してゆく。しかしジョンソンはそれに合流しなかった。彼のベース音が初めて鮮明に捉えられたのは1928年6月におこなわれたディキシー・フォー名義の録音だろう(同名のゴスペル・グループと混同せぬよう)。ジミー・ブライスバディ・バートンが1台のピアノを連弾し、それをジョンソンとドラマー(クリフ・ジョーンズ説、マーカス・ノーマン説がある)が伴奏するというもので、ピアノ~ベース~ドラムスという編成で制作された世界初のレコードかもしれない。録音はラッパからマイクに向かって演奏する方式へ移り変わり、骨太な指弾きベースの音も大きめのヴォリュームで聴けば過不足なく捉えることができる。ブライスとジョンソンは当時コンビを組んでいたのか、28年7月のステイト・ストリート・ランブラーズ、8月のジュニー・C・コブ・アンド・ヒズ・グレインズ・オブ・コーン、10月のミッドナイト・ランブラーズ名義のセッションでも共演している。ちなみにミッドナイト・ランブラーズは、またしてもピアノ(こんどはブライスひとり)~ベース~ドラムスで吹き込まれており、こうなるともう、ピアノ・トリオの元祖はテディ・ウィルソンだ、いやバド・パウエルだ、などと言っていてはラチがあかない。ジミー・ブライスこそピアノ・トリオの扉を開いた人物なのだ、と力説したくなってくる。
ジョンソンは、翌29年になるとD.C.ライス牧師の伴奏も務めた。当時はまだ職業としてのゴスペル歌手はなかったはずだから、実に貴重な録音といえよう。牧師のシャウト、骨太なベース音、パンチ・ミラーのコルネットが交じり合う「ヒーズ・ガット・ヒズ・アイズ・オン・ユー」はライスの代表的名唱であり、今ではMP3で配信されてもいる。このへんの音源をダウンロードするひとがどのくらいいるのかは知らないが、80年以上も前の録音がSP→LP→CD→ダウンロードと伝承され続けているのは、考えれば考えるほどすごいことだ。
そして同年3月、ジョンソンは“ビル・ジョンソンズ・ルイジアナ・ジャグ・バンド”名で初めてのリーダー・セッションを持つ。10年ほどまえに中村とうよう氏監修のアンソロジーCDが出たことで日本国内での再評価が進んだフランキー・ハーフパイント・ジャクソンが歌い、タンパ・レッドジョージア・トムの名コンビも参加しているためかジャズというよりはブルース~ホーカム調であるが、そこがまたブラック・ミュージック好きにはたまらない。無理にジャズにたぐりよせればチャールズ・ミンガスの弾き語り作『オー・ヤー』に通じる猥雑な粘り気も感じられることだろう。そうなると「ジャズ・ベーシストとして初めてリーダー作品を吹き込んだのは間違いなくビル・ジョンソンだ」と断定したくもなろうが、物事はそう巧くいくものではない。28年3月に吹き込まれた女性奏者、セルマ・テリーのセッション(Columbia盤SP)が、おそらくジャズ・ベーシストのリーダー第1号録音であろう。
「バディ・ボールデンの先輩」であり、「史上初のピアノ・トリオ録音」に関与し、もう少しで「初めてリーダー吹き込みを残したジャズ・ベーシスト」になるところだったビル・ジョンソン。今年で139歳になる彼は雲の上で、今のジャズ・ベース界の充実ぶりをどう感じているのだろう。

       

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 2010/12/29 原田和典のJAZZ徒然草 第64回


冬の沖縄に、暖かなジャズが鳴り響いたぜ

この年末、沖縄に行ってきた。理由は“ゴーヤ”である。最近は首都圏にもけっこうな割合で沖縄料理を出す店がある。北海道で生まれ育った僕にとって沖縄はエキゾチックの最たるものであり、つねにまだ見ぬ憧れの土地であった。だからしばしば東京の沖縄料理店に行き、ソーキそばやらラフテーやらゴーヤチャンプルーやらを食べるのだが、何度食べてもゴーヤがまずいのだ。「まずい、にがい、後味悪い」の三拍子で僕の味覚を苦しめるのである。
「いくら健康にいいといっても、こんなにまずいものを沖縄の人々は日常的に食べているのだろうか? ただひとよりちょっと長生きしたいがために、敢えてまずいものを食っても、そんなマインドは決して長続きしないはずだ。なぜなら人間にとって食事は人生の楽しみであるはずであり、生きていく上での最大のエンタテインメントのひとつであるからだ。なのに沖縄のひとたちはゴーヤを食べ続けている。実は沖縄のゴーヤはおいしいのではないか? 俺が東京で食ってるゴーヤの質に問題があるんじゃ?」。
そこで僕は沖縄に行ってゴーヤを食べまくった。ゴーヤチャンプルーも、ゴーヤの粕漬けもモリモリ食べた。そして出た結論は・・・・・うまい! にがさの中からそっと溢れ出る甘さ、肉厚な繊維、さわやかな後味。俺が今まで食べていたゴーヤはなんだったんだ! モノホンのゴーヤのグルーヴ感を遂に味わったぜ!! てな感じである。なのでそれ以来、僕はすっかりゴーヤ党になってしまい、今では栄町市場商店街のちっちゃな漬物屋から“おとり寄せ”をするまでになった。 

「インタリュード」外観

「ゴーヤ」目的の旅だったので、実はそれほどライヴに接していない。しかし、前から行きたかった「インタリュード」と「JAZZ LIVE IN 寓話」ではしっかりジャズを聴いてきた。前者は沖縄が誇る、というよりも日本人で「英語に聴こえる英語の歌」を歌える希少なジャズ・シンガーである与世山澄子が1972年(沖縄返還の年)に開店したライヴ・スポットだ。プロフィールによると与世山は50年代から米軍キャンプ等で歌い、レス・ブラウン楽団やボブ・ホープと同じ舞台に立ったそうだ。そして「アメリカに来い」と何度もいわれたらしい。これは僕にとって当然であると同時に、少し意外でもあった。というのは彼女の歌はエモーショナルでソウルフル、あえてたとえるならビリー・ホリデイアビー・リンカーンを彷彿とさせるものであり、ブラウンやホープのような“グッド・オールド・ヤンキー”的な芸風とはいささか異なるように感じられるからだ。 

与世山澄子

「インタリュード」の分厚いドアを開けると、ソニー・ロリンズの「テナー・マッドネス」のCDが耳に飛び込んできた。僕は最初の客だった。やがて次々と常連らしいひとたちが入ってくる。となりのテーブルからサーターアンダギー(沖縄風ドーナツといえばいいか)がまわってくる。このフレンドリーな感じがたまらない。与世山澄子はカウンターでカップラーメンを食べている。
僕が与世山の歌を初めて聴いたのは1980年代、柳家小三治のラジオ番組で、だった。「本物のジャズ・シンガー」と紹介されていた記憶がある。僕もそれに異論はない。いつかナマで味わいたいと思っていた与世山澄子が今、そこでカップメンをすすっている。なんと頭のクラクラする光景だろう。
ピアニストがソロで2、3曲プレイした後、お客さんをかきわけながら与世山がステージに立つ。詞の意味を日本語で説明し、歌い始めたのは「バード・アローン」。アビー・リンカーンがアルバム『ユー・ガッタ・ペイ・ザ・バンド』で絶唱を残したナンバーだ。そうそう、この歌声、この節回し。80年代のレコードとまったく変わっていない艶やかさ。それどころかさらにコクを増している。マイクを使っていても、生の声がビンビンに響いてくる。目を閉じているかと思えばカッと見開き、頻繁に上下する腕や手は歌詞の登場人物の心のありようを表しているかのようだ。この1曲で「ああ、沖縄に来てよかった」と強く思った。birdという単語をこれほどきっちり発音して歌える日本人シンガーがほかにいたら教えてほしいものだ。「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」の歌詞のタイトル部分も、しっかり「時が過ぎても」と紹介していた。これを「時の過ぎゆくまま」と 解釈しないところに、僕は与世山澄子の高い見識を感じた。 

屋良朝秋
「寓話」外観
「寓話」のセッション

翌日は、これも老舗の「JAZZ LIVE IN 寓話」に行った。この4月に亡くなったピアニスト、屋良文雄がオーナーを務めていたライヴ・スポットで、開店30年以上になる。僕が屋良文雄のピアノを初めて聴いたのは2,3年前のことだ。リスペクト・レコードのCD『ウチナーJAZZ』で大活躍していたピアニストが屋良文雄だった。あまりにも楽しい作品だったので、雑誌「DIG」(今は休刊中)のコラムでとりあげたこともある。しかし彼自身の生演奏はついに聴くことができなかった。間に合わなかった。追悼CD『ベスト&ラストライブ』を聴いて、生前の姿を想像するしかない。屋良文雄は、琉球大学在学中の1962年にプロ活動を始めたという。75年に自己のトリオを結成し、2001年から沖縄ジャズ協会の会長も務めていた。僕が「寓話」で手に入れたCD『maisha』には、ジャズともクラシックとも、もちろんニュー・エイジ・ミュージックともいえない、研ぎ澄まされた中に深い情念を感じさせるピアノ・ミュージックがひしめいていた。いま、「寓話」では息子の屋良朝秋(ともあき)がピアノに向かっている。僕が見た日は2管クインテットのセッションで、屋良文雄トリオにも在籍していたベテランの津嘉山善栄がスティックを握っていた。バスドラの小気味良い連打に鼓舞されるようにして、ブン岩崎のアルト・サックスからバップ・フレーズが矢継ぎ早に飛び出す。ときおりクリスマス・ソングのフレーズを挿入しながら繰り出されるアドリブは快感のひとことに尽きる。ボサ・ノヴァ風の「ゼア・ウィル・ネヴァー・ビー・アナザー・ユー」も実に良かった。そしてこの店、食べ物がおいしい。泡盛のつまみについてきた白菜の漬物は、「いったいどう漬けたら、こんなにコクが出るんですか」と尋ねたくなるほどだった。
翌日は沖縄市(旧コザ市)、金武(きん)市を、ほんの少しだが歩いた。ドルが使える店もかなりある。僕はキャンプ・ハンセン近くにあるダイナーで食事をした。隅っこにオンボロのジュークボックスがあり、オージェイズインプレッションズ(カーティス・メイフィールドのいたグループ)等のシングル盤がつめこまれていた。残念ながら今は作動しないとのことだったが、30年ぐらい前には数多くの米兵がここに来て、ジュークボックスにクオーター(25セント硬貨)を入れては踊っていたそうだ。コザ市では中古レコード店ものぞいた。地元のレーベル“マルフク・レコード”を集めたコーナーがあったのも嬉しかった。

 コザ市で見かけた看板  金武市のメインストリート  コザ猫

★近況報告
『5000 SONGS~プレイリストで楽しむ私的名曲セレクション』(MUSICSHELF編集部 ヤマハミュージックメディア)という本に僕のエッセイが掲載されています。まだ現物は見ていないのですが、木村カエラ、西野カナ、ケツメイシ、青山テルマ、坂本真綾などのみなさんに交じっての登場です。『ディスク・ガイド ジャズ・トランペット』(シンコーミュージック・エンタテイメント)、絶賛発売中です。トランペットのガイド本はこれで十分。最高に楽しく面白く内容が濃いです。『ディスク・ガイド ジャズ・ピアノ』(同)も『ディスク・ガイド ジャズ・サックス』(同)も大好評発売中です。穴の開くまで読み返してください! 『猫ジャケ』、『猫ジャケ2』(ミュージック・マガジン)、『原田和典のJAZZ徒然草 地の巻』(プリズム)もディスクユニオン各店で絶賛発売中です。リマスター完備、新規原稿50%増し(当社比)なので、ウェブ上の「徒然草」とは別物と断言してよいでしょう。個人ブログ「ブログ人」、私も混ぜてもらっているウェブサイトcom-postもバリバリに展開中です。

 

 2010/11/22 原田和典のJAZZ徒然草 第63回


アブドゥーラ・イブラヒムと並ぶ南アの重鎮、ヒュー・マセケラに耳を傾けてみようぜ


今年はちょっとした“アブドゥーラ・イブラヒムの年”だったと思う。6月にはNHKのBS2で彼の軌跡をたどるドキュメンタリー「南アフリカ 絶景を弾く」が放映され(カラハリ砂漠で演奏するシーンは殊に圧巻!)、アルバム『先祖』も帯つき国内盤仕様として登場。彼の作品が国内盤として出るのはいったい何年ぶりなのだろう。そして9月から10月にかけて来日、東京と京都でソロ・ピアノ・ライヴをおこなった。京都では上賀茂神社に楽器を持ち込んで、木々のそよぎや虫の羽音や鳥の鳴き声が聞こえるなか、感動的なパフォーマンスを繰り広げたという。
僕は東京サントリー・ホールのライヴと、その前日におこなわれた南アフリカ共和国主催のパーティでイブラヒムを聴いた。パーティの最後には、その会場に設置されていた決して良い調律とはいえない小型グランド・ピアノを弾いてくれた。お高くとまったミュージシャンなら、「自分のためだけに用意されている、完璧にチューニングされたフルコンサート・グランド・ピアノ」しか弾かないだろう。しかし彼は、直前までレストランおかかえ(?)のピアニストがイージー・リスニングを奏でていた楽器の椅子に腰をおろし、いつもと同じように真剣に、20分以上にわたって“イブラヒム節”を奏であげた。“弘法、筆を選ばず”を感じた瞬間である。
しかし、今回の文章の主役はアブドゥーラ・イブラヒムではない。彼と並ぶ南アフリカの至宝、ヒュー・マセケラについて、である。イブラヒムとマセケラは1950年代後半から60年代初頭にかけて、故国で“ジャズ・エピッスルズ”というバンドを組んでいた。彼らは最初にレコーディングした南アの黒人モダン・ジャズ・グループともいわれている。当時の録音を聴くと、イブラヒムはセロニアス・モンク、マセケラはディジー・ガレスピーの影響が濃いようだ。バンド分裂後イブラヒムは、ヨーロッパを拠点にあくまでもアコースティック~スピリチュアルなサウンドを追求して現在に至っているが、マセケラは逆にアメリカに進出し、ポップ~エレクトリック路線を推進、米国ヒット・チャートに顔を出すほどのポピュラリティを獲得した。『プロミス・オブ・ア・フューチャー』(68年)、78年の『ハーブ・アルパート&ヒュー・マセケラ』はそれぞれジャズ・チャートの1位、5位に輝いている。また2005年の『リヴァイヴァル』はワールド・ミュージック・チャートの6位まで上昇した。
マセケラは2005年夏、『リヴァイヴァル』を携えて来日している。僕はいの一番に取材を申し込み、彼もたっぷりしゃべってくれたのだが、掲載する媒体がなかなか見つからず困った覚えがある。後日、今はなき「ADLIB」誌に一部(5分の1ほど)を掲載させていただいたのだが、今回はその全長版をお届けしたい。

南アフリカの黒人はとてもエネルギッシュなんだ。レディスミス・ブラック・マンバーゾやミリアム・マケーバの音楽を聴いても、ものすごいエネルギーを感じるだろう? 400年間、私たちは戦いに巻き込まれたり、警察に追われて塀を越えたりすることを繰り返さざるをえない状況にあったからね。
私の音楽のテーマは南アフリカの現状であったり、心の葛藤であったり喜びであったり、さまざまなんだ。でも私は西アフリカにいたこともあったからナイジェリアやコンゴの音楽の影響もあるね。シンガーではミリアム・マケーバとハリー・ベラフォンテが大好きだ。トランペッターではルイ・アームストロング、ディジー・ガレスピー、マイルス・デイヴィスクリフォード・ブラウンをよく聴いた。それから南アフリカのトランペッター、大先輩のイライジャ・クワイトからの影響も大きい。曲を書くときのコツは、「これから作曲するぞ」と気張らないことだ。そうすると、どこからかメロディが降りてくる。
6歳のときにピアノを始めた。私にジャズを紹介したのは、寄宿学校の先生で聖職者だったトレヴァー・ハドルストンという英国生まれの人物だ。14歳ぐらいの頃かな。当時の私は問題児だった。「どうして君はそんなに問題ばっかり起こんだ、いったいお前の望みは何なんだ」と彼は私に言った。ちょうどその頃、私は「ヤング・マン・ウィズ・ア・ホーン」という映画を見たばかりだった。俳優のカーク・ダグラスが、ビックス・バイダーベック(伝説のコルネット奏者)を演じた作品だね。それを見てトランペットを吹きたいと思っていたので、私は「トランペットが欲しいです、もしトランペットを買ってもらえるのなら悪いことはしません」と言った。そうしたら先生(トレヴァー)は楽器を買ってくれて、トランペットの教師も紹介してくれた。彼(トレヴァー)は、私以外の生徒にも楽器を買い、やがてハドルストン・ジャズ・バンドを作った。だけど先生は反人種差別の活動家だったので、退国命令が出てしまった。彼はアメリカ経由で英国に戻ったんだが、その途中でルイ・アームストロングに会うことができた。そして私の話をしてくれたらしい。ルイはこう言ったそうだ。「私もかつては問題児だった。トランペットが私を救ってくれたんだ」とね。それで私に新しい楽器を贈ってくれた。
でも今の私はもうトランペットを吹かないんだ。1969年を最後に、フリューゲルホーンに専念している。私のトランペットの音色は鋭すぎて、吹いている自分でもキンキンしてしまう。それが問題だった。フリューゲルホーンを初めて聴いたのはマイルスのレコードだったけど、自分の出したい音、丸みがあるふくよかな音にぴったりの楽器だと思った。私はフリューゲルホーンでもトランペット的な明るい音を出せるしね。それから歌やダンスも自分の音楽に欠かすことができない。南アフリカの人間にとって、歌うこと、踊ること、演奏することはみんなひとつなんだ。
すごく長く続いた政府の抑圧が南アフリカの文化、伝統、価値を破壊(destroy)した。「黒人の伝統、文化なんで野蛮なものだ」と、多くの南アフリカ人の自尊心がなくなるぐらいに抑圧し、搾取してきた歴史がある。今ようやく南アフリカは、自由な国になろうとしている。失った多くのものをとり戻そうというリヴァイヴァルの動きがあって、それは音楽の世界にも起きている。アルバム『リヴァイヴァル』では、南アフリカの黒人としての喜びや苦しみを表現すると同時に1930年代から50年代にかけてのヒット曲やフォーク・ソングをとり入れた。プロデューサーは若者だが、そういう古い素材を新鮮に感じてくれるのですごくエキサイティングな気分を味わっているよ。私のチサ・レコードは南アフリカでは初めてディストリビューション、製造、マネージメントも含めて自分たちでやっている会社だ。もう搾取されたくないものね。我々はプライドを取り戻すべきなんだ。
ジャズ・クルセイダーズの面々と出会ったのは、1965年のことだ。私がミリアム・マケーバやレッタ・ンブールとツアーをやっているときに、「とてもいいバンドだ。聴いたほうがいいよ」と誰かに言われたので、彼らの出るフェスティバル会場に行って、その場で飛び入りしたんだ。すぐに気が合ったよ。私は当時、まだアメリカに来て日が浅かったから、親しいミュージシャンはクルセイダーズぐらいしかいなかった。66年の第1回ワッツ・ジャズ・フェスティバル(ロサンゼルス)で演奏するときにも、彼らにサポートを頼んだんだが、もうその時点でジャズ・クルセイダーズは解散していた。それで私がメンバーを再集合させて、1万人のオーディエンスの前で一緒にプレイした。そのセッションを機に彼らは再会し、グループ名からジャズをとって単にクルセイダーズと名乗るようになったわけさ。(※史実と違うが、マセケラはこう語っていた)
フェラ・クティも私の大切な友人だ。私に西アフリカを紹介してくれたのが彼なんだよ。70年代には西アフリカに住んだこともあるし、何度も一緒に共演している。アルバム『リヴァイヴァル』の中の「スリープ」や「ウーマン・オブ・ザ・サン」は彼のスタイルを意識して書いたんだよ。フェラのアフロ・ビート、ジュジュ、ジャズ、R&Bをミックスしたようなスタイルはとても刺激的だった。素晴らしいミュージシャンとしての面と急進的な活動家としての面をあわせもつ、おもしろい奴だったね。

私はポール・サイモンのグレイスランド・ツアーにも参加しているんだが、一番最初に出会ったのは1966年。私がトム・ウィルソン(ジャズ~ロックをまたにかけたプロデューサー)のオフィスに行ったときだね。ポールが「スカボロー・フェア」をトムに聴かせているその場を目撃したわけさ(笑)。その翌年、67年のモンタレー・ポップ・フェスティバルでも顔を合わせた記憶があるよ。それ以来、ずっと親交が続いている。『グレイスランド』を南アフリカで録音するときにもぜひプレイしたかったんだけど、当時の私は亡命していたから国(南アフリカ)に戻れない。だからレコーディングには参加していないんだが、アメリカに帰ってきたポールが私に、録音したばかりの『グレイスランド』を聴かせて、「これがもし売れたらぜひツアーをしたいんだ。だけど100名ものミュージシャンを南アフリカから連れてくることはできない。どうしよう」と相談してきたんだな。そこで私はこう言った。「それじゃ、私の「マンデラ(ブリング・ヒム・バック・ホーム)」で演奏しているメンバーはどうだい? なんなら(マセケラの前妻の)ミリアム・マケーバにも声をかけようか」。レディスミス・ブラック・マンバーゾもポールの希望で呼んで、あのグレイスランド・バンドができた。アルバムは1000万枚も売れ、南アフリカのこともアパルトヘイトのことも知らないひとにも届いて、世界ツアーでは南アフリカの現状を多くの人に訴えることができた。ポールにとっても、キャリアのハイライトだったんじゃないかな。
水、空気、大地が汚染されたのと同じように、性交渉を持つことすら今の世の中では危険になってしまった。「でも音楽まで、人間が汚染して破壊してしまうことはないはずだ」と思っていたけれど、実際いま、もしここで最新のヒット曲が流れたら、みんなで歌える歌はあるだろうか? 80年代に弁護士や会計士が音楽業界の中に入り込んで、それと同時にメロディやミュージシャンシップは隅に追いやられてしまった。音楽産業が、テレビや車を売るのと同じようなものになってしまった。1年前の大スターが今ではタダの人ということも珍しくない。パソコンがどんどんモデルチェンジして新しくなるのと同じ。業界が音楽を殺してしまった。ケチャップとなんら変わらない消耗品、と言ったらケチャップに失礼かな。

音楽には心を動かす大きなパワーがあるはずなんだ。ただ業界としてみたときに利益ばかりが追求されてしまう。私は幸いここまで長く残ってきているけれど、50年代から活動している、もっと素晴らしいミュージシャンたちが仕事を受けられないというのも現実のひとつだ。それは彼らの中に素晴らしいミュージックがありすぎて、ギミックがなさすぎるからなんだろうね。


 
★近況報告
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 2010/10/22 原田和典のJAZZ徒然草 第62回


アルト・サックスの抒情詩人、マリオン・ブラウンが亡くなってしまったぜ


毎日のように各界の偉人が旅立っている。ジャズの世界もその例外ではない。9月19日にはエリック・ドルフィー他にも影響を与えたマルチ・リードの重鎮、バディ・コレットが89歳の生涯を閉じたと思ったら、この10月10日にはマリオン・ブラウンが亡くなってしまったではないか。2005年から住んでいたフロリダ州の自宅で世を去ったとのことだ。1965年にジョン・コルトレーンの歴史的な『アセンション』やアーチー・シェップの『ファイアー・ミュージック』に参加、70年にはチック・コリアアンソニー・ブラクストンなど“サークル”のメンバーと『ジョージア・フォーンの午後』を録音し、その後も“ゼンジーレ”(若きブランドン・ロスがいた)とのコラボレーション、ギュンター・ハンペルとのデュオ等でファンを喜ばせてくれたブラウンが、もうこの世にいないなんて。また、ジャズ界にポッカリ穴が開いてしまった。2005年だったか、ニューヨークのジャズ新聞「オール・アバウト・ジャズ」の電話インタビューを受けて、「元気だよ。手術の経過も良好だし、作曲も始めている。楽器を再び演奏することもあきらめてはいない」と語っていたのに・・・。合掌。

いわゆるジャズ評論家的な観点からいけば、1950年代はハード・バップの時代、60年代はフリー・ジャズまたは新主流派の時代、ということになる。が、この分け方が21世紀の今も有効だとは僕は思わない。だいいち、各ミュージシャンの生年は意外にも近く、「世代交代」というほど離れていないのだ。たとえばハード・バップの代表的ベーシストであるポール・チェンバースは1935年生まれ、フリー系に分類されがちなチャーリー・ヘイデンは37年生まれ、新主流派の代表格とも目されるロン・カーターも37年生まれなので、実際のところチェンバースと「新世代」たちの年齢差は2つしかない。
マリオン・ブラウンは1931年9月8日生まれだから、世が世であればハード・バッパーとして名を馳せていてもおかしくなかった。世代的にはソニー・ロリンズオーネット・コールマンブッカー・アーヴィンより1歳下、ハンク・モブレフィル・ウッズジャッキー・マクリーンと同い年、ウェイン・ショーターより2歳年上にあたる。しかし彼はニューヨーク進出が遅れたので結果的に“遅咲きミュージシャン”に数えられるようになった。故郷のジョージアからマンハッタンへの道のりは遠かったことだろう。
幼少のことはどうもはっきりしないが、残されたインタビューによれば母親が大の音楽好きで、家に流れていたチャーリー・パーカーのレコードを聴いたことがサックス奏者を志すきっかけになったようだ。なおマリオンの生家の4ブロック先にはマーティン・ルーサー・キングJr.牧師が住んでいたという。17歳から人前での演奏を始めた。1950年代初頭には朝鮮戦争の兵士として戦い、日本に駐留したこともあるようだ(軍楽隊ではアルト・サックス、バリトン・サックス、クラリネットを演奏)。当時の日本にはハンプトン・ホーズ(ピアノ)を筆頭に、ルー・ブラックバーン(トロンボーン)、ネイビル・“ノビー”・トーター(ベース)、ハル・ステイン(サックス)、エミール・リチャーズ(ヴィブラフォン)など何人ものミュージシャンが進駐軍としてやってきて、時間をみては日本のジャズ・ミュージシャンと交流を深めたとも伝えられるが、マリオンに関するそのような話は寡聞にして知らない。帰米後はクラーク・カレッジで音楽理論を学び、一時期ニューヨークにも滞在。60年に入るとワシントンDCのハワード大学に入り、法律を学んだという。活動家のストークリー・カーマイケルに出会ったのもこの時期だ。もちろん音楽活動も続けており、ジョン・コルトレーン研究の権威であるアンドリュー・ホワイト(サックス)、ジョー・チェンバース(ドラムス)、モーリス・ロビンソン(サックス。ドラッグ禍で夭折した)らと腕を磨いた。

マリオンが再びニューリヨークに渡ったのは1962年のことだ。ある場所で演奏していたところ、詩人のロイ・ジョーンズ(アミリ・バラカ)がそれを聴き、「ダウンビート」誌のコラムで絶賛した。後日、ふたりはペインターのウィリアム・ホワイトの紹介で顔を合わせた。マリオンは読書家で、とくに詩を愛していたのでバラカともすぐに意気投合したであろうことは想像に難くない。マリオンはバラカを通じてオーネット・コールマン(マリオンは彼のプラスティック製のアルト・サックスを借りたことがあるという。また彼のヴァイオリン練習にサックスでつきあったこともあるとか)、サン・ラ等と知り合う。シェップは評論家のA.B.スペルマンが紹介してくれた(異説もある)。またマルコムXとも顔を合わせた。こうした毎日の積み重ねが、64年の伝説的フリー・ジャズ・イヴェント「12月の四日間」や、前述『アセンション』、『ファイアー・ミュージック』、「ヴィレッジ・ゲイト」でおこなわれた前衛派の決起集会「ニュー・ウェイヴ・イン・ジャズ」への参加につながったわけだ。「オール・アバウト・ジャズ」のインタビューで、マリオンはこう語っている。「『アセンション』のレコーディングは、ひとりを除いて皆が楽しんだ。その例外は、エルヴィン・ジョーンズだ。彼はコルトレーンがフリー・ジャズをプレイすることが本当に面白くなかったんだ。私がサックスを吹くだろう、そしてエルヴィンに微笑みかける。そうしたら彼は私をじっと見て、犬のように唸るんだ」
同じ65年には初アルバム『マリオン・ブラウン(キャプリコーン・ムーン)』、66年に『ホワイ・ノット』をESPディスクに吹き込み、インパルスには『スリー・フォー・シェップ』をレコーディングした。これは3曲がシェップの作品、もう3曲がブラウン自身のオリジナルというもので、ジャケットにはシェップが友情出演した(演奏には不参加)。またフォンタナ・レーベルのニュー・ジャズ・シリーズには『ジュバ・リー』という作品を残している。マリオンが語るところによると、このアルバムには彼のLSD体験が反映されているとのことだが、たしかに、妙にひんやりしつつ、一方で限りなくドロドロしている実に不思議なフリー・ジャズが聴ける。アラン・ショーター(ウェイン・ショーターの3歳年上の兄)のフリューゲルホーンや、後年マイルス・デイヴィスの『ビッチェズ・ブリュー』やハービー・ハンコックの『ヘッド・ハンターズ』に加わるベニー・モーピンの若き日のプレイも随所で楽しめる。

67年から70年まではパリに移住し、アフリカ音楽や、エリック・サティの作品を研究しながら、さまざまなライヴやレコーディングをこなした(映画「Le Temps fou」のサウンドトラックも手がけた)。生涯の友であるギュンター・ハンペル(ヴィブラフォン、ピアノ)とのコンビを開始し、その他アメリカでの低評価に嫌気が差して母国を離れていたスティーヴ・マッコール(ドラムス)、バール・フィリップス(ベース)、ワダダ・レオ・スミス(トランペット)らとセッションに興じた。この時期の代表的アルバムをひとつあげるとすれば『ポルト・ノーヴォ』だろう。それまで細身の体格どおりのスリムな音を出していたマリオンがハン・ベニンクのドカタドラムに煽られながら、圧倒的な音圧で全曲を吹ききっている。彼の第二章の開幕を告げる傑作だ。

70年にアメリカに戻ったマリオンは教育者として活動しながら、好きな音楽を演奏する道を選ぶ。このあたり、やはり大学教授になっていた友人アーチー・シェップからのサジェスチョンもあったのかもしれない。コネチカット州やメイン州で音楽教授として教鞭をとり、76年にはエスノミュージッコロジー(音楽民俗学といえばいいのだろうか)の修士号を得ている。ミュージシャンとしてもこの時期、マリオンは出すもの出すものすべてが満塁ホームラン級の充実を示していた。インパルス・レーベルに残された3部作『ジーチー・リコレクションズ』、『スイート・アース・フライング』、『ヴィスタ』は真のリリシストである彼の面目躍如だろう。『スイート~』でムハール・リチャード・エイブラムスとポール・ブレイという当代最高のピアニストに役割分担させるセンスときたら、言葉に困ってしまうほど冴えている。『ヴィスタ』ではスタンリー・カウエルや若きアンソニー・デイヴィスが参加しているが、これほどエレクトリック・ピアノを美しく活用したジャズ作品はこれ以前も以後もないのではないか、といいたくなるほどだ。

76年からは日本のレーベルのための原盤制作も開始し、同年のディスコメイト盤『アオラフォーラ』からはアフリカン・カリプソというべき「ラ・プラシータ」が生まれた。77年から79年にかけてはRVC(当時)内に設立されたベイステイトから傑作を発表、とくに文頭で触れた『ゼンジーレ・フィーチャリング・マリオン・ブラウン』、『ノヴェンバー・コットン・フラワー』は大変な力作・名演で世界中に散らばっているであろう創造的な音楽ファンを喜ばせるに足るものだ。また『ソウル・アイズ』は、マリオンにとって長年の念願であったフィリー・ジョー・ジョーンズとの共演が実現した記念すべき1枚。代表曲「アフリサ」も聴ける。かつては日本制作盤にも、こうした高い価値を持つアイテムが存在したのである。

80年代を迎える頃からマリオンは演奏活動、教育活動の他に、芸術の世界にも大きく進出し始める。とくにペインティングは高い評価を呼び、ロメア・ベアデン(前回の当コーナー参照)らと並び称されることもあったようだ。しかし健康状態は日に日にすぐれなくなっていく。「高血圧だったのに、コカインを吸い続けていたのが原因かな」と晩年のインタビューで答えているが、大動脈瘤の手術後は殆ど人前に出ることがなかったようだ。2003年の取材では、一度共演したかったアーティストにソニー・ロリンズの名をあげている。「ソニーは私が出会った中で最もビューティフルな人物だ。いろんな会話を交わしてきたが、どういうわけか一緒にプレイしたことはないんだ。それができなかったことが心残りだよ」。 マリオンとロリンズ。心を震わせるような“音の会話”が聴けたに違いないのだが・・・・。

★近況報告
ディスク・ガイド ジャズ・トランペット(シンコーミュージック・エンタテイメント)、絶賛発売中です。トランペットのガイド本はこれで十分。最高に楽しく面白く内容が濃いです。ディスク・ガイド ジャズ・ピアノ(同)もディスク・ガイド ジャズ・サックス(同)も大好評発売中です。穴の開くまで読み返してください! 『猫ジャケ』、『猫ジャケ2』(ミュージック・マガジン)、原田和典のJAZZ徒然草 地の巻(プリズム)もディスクユニオン各店で絶賛発売中です。リマスター完備、新規原稿50%増し(当社比)なので、ウェブ上の「徒然草」とは別物と断言してよいでしょう。個人ブログブログ人、私も混ぜてもらっているウェブサイトcom-postもバリバリに展開中です。

 2010/09/25 原田和典のJAZZ徒然草 第61回

ハーレムからグリニッチ・ヴィレッジまで、ひと足でアート体験をしてきたぜ
先日、銀座の映画館で「帰ってきた若大将」を見た。1980年の公開作品。飯田蝶子はもういないが、有島一郎はまだ健在だった。相変わらず若大将はモテモテで胸毛を見せながらハワイアンを歌っていたが、僕にとって若大将ものの最大の楽しみは「田中邦衛がいかに爆裂するか」に尽きる。邦衛の燃え方ひとつで、その作品が僕の若大将映画ランキングのどのへんに位置するかが決まるのだ。
その点、「帰ってきた若大将」はぶっちぎりで素晴らしかった。60年代に作られたリアルタイム若大将の諸作より、さらに数段すごい邦衛に接することができるのだ。船上で澄ちゃん(星由里子)にビンタして襲いかかる「海の若大将」(65年)の邦衛がアペタイザーに思えるほど、「帰ってきた若大将」の邦衛はいい。しかも本物のニューヨーク・ロケである。
画面にうつるプラザ・ホテル周辺の風景、パナムビル(今はメットライフ・ビルと改称)を見ていると、去る6月のニューヨーク探訪でまだ書いていないことが随分あったのを思い出した。
1日、僕はハーレムで過ごすことにした。いろんな屋台がそれぞれポスター、Tシャツ、香水、CDなどを売っている。どの売り場も必ず、といっていいほど店員の椅子の横にオンボロのラジカセがおいてある。流れているのは、決まりきったようにマイケル・ジャクソンのナンバーだ。そうだ、今日はマイケルの命日なのだと思い出す。途中、マクドナルドに立ち寄る。壁にはマイルス・デイヴィスジェームズ・ブラウンキャブ・キャロウェイなどの肖像画がかかっている。それだけで僕はマクドナルドが好きになってしまう。普段は、まずいかないのに・・・・。
アポロ・シアター

お目当ての建物は「The Studio Museum in Harlem」(144 West 125th Street)だ。僕の見た展示は「Collected. Reflections on the Permanent Collection」というタイトルだったから所蔵品展なのだろうが、アフリカ系アメリカ人の美術にどっぷりと浸る貴重な機会を得た。なかでも心にガツンと飛び込んできたのはロメア・ベアデン(Romare Bearden)の作品だ。彼の名はブランフォード・マルサリスが『Romare Bearden Revealed』というアルバムを捧げたことでジャズ・ファンにも知られていよう。ドローイング、ペインティング、デザイン、オブジェ、なんでもこなす。いろんなことをやりたくてしょうがない
BRANFORD MARSALIS / ROMARE BEARDEN REVEALED
性根のひと、という印象を受けた。黒い岡本太郎、と表現してもそれほど行きすぎではないと思う。
正直なところ、この日の僕はまだ時差ぼけがとれていなかった。が、ベアデンの芸術に接してすっかり目が覚めた。ちからがムクムクと沸いてくるような印象を受けた。ほかには、バークリー・L・ヘンドリックス(Barkley L. Hendricks)の「セルフ・ポートレイト・イン・スリー・カラーズ」という絵が強く印象に残った。チャールズ・ミンガスの訃報に接して、悲しみの中で描かれたものだという。天使に姿を変えたミンガスが雲の上でベースを弾いている様子を抽象化した図は、すべてのミンガス・ファンの心を揺さぶることだろう。フロアの外にある売店では例によってマイケルのヒット曲が流れていたが、セシル・ペインレスター・ボウイを捉えた絵葉書も売っていた。日本でもマイケルやベアデンやペインについての会話が等しく成立する状況がくればいいのにと心から思った。
さあ、次は「Schomburg Center for Research in Black Culture」(515 Malcolm X Boulevard)だ。ここでは「What's Up @ the Schomburg?」という写真展、パネル展が開かれていた。いわゆるアフリカ系アメリカ人についてもジョー・ルイス(ボクサー)、ジャッキー・ロビンソン(野球選手)、リナ・ホーン(女優)、ジョン・コルトレーンなど幅広く紹介されていたが、キューバのチャノ・ポソやナイジェリアのフェラ・クティなど「国外」の人物や文化についても、可能な限りのスペースを割いているように感じられた。高名な黒人詩人であるジェーン・コーティス(オーネット・コールマンの元嫁。デナード・コールマンの母)とアミリ・バラーカ(旧名リロイ・ジョーンズ)が語り合っている写真にもぞくぞくさせられた。なぜなら僕は、この二人のライヴをその前日に聴いたばかりだったからだ。だがこのショーンバーグ・センター、ハーレム地区のウェブサイトが伝えるところによると2011年以降の存続が危ぶまれているという。
次に足を運んだのは「International Center of Photography」という写真美術館だ(1133 Avenue of the Americas)。展示内容は「All the World to See: Visual Culture and the Struggle for Civil Rights」。写真と資料でたどる公民権運動への道のりといったところか。ルイ・アームストロングパール・ベイリーナット・キング・コールジョニー・マティスジャッキー・ウィルソン等の映像、ジョン・コルトレーンの名演「バカイ」で知られるエメット・ティル殺害事件の生々しい記録(リンチを受け、さらに重りをまきつけられて水中に投げ込まれた彼の顔は、肩幅の倍ほどふくらんでいた)、いわゆる“ストレンジ・フルーツ”の写真、「ブラック、メキシカン、犬は立ち入り禁止」と書かれた看板などが次々と展示されている。ほかにも信じがたい差別、行状の数々を伝える数多くの資料があった。目をそむけたくなったことも一度や二度ではない。しかしこれは実際にあったことなのだ。そして僕は改めて思った。「なるほど、こういう考えを持っている連中だから、ドイツやイタリアではなく、有色人種の国に原子爆弾を2つも落としたのか」と。閑話休題。
10回ライヴをやっていれば10回すべて聴きたくなる、そんな存在がトランペット奏者のアンブローズ・アキンムシーレである。この夏には大手ブルーノート・レコードと契約した。大出世ともいえようが、あの恐るべき実力を思えば遅すぎるぐらいだ。僕が「ジャズ・スタンダード」(116 E. 27th Street)で見たステージは、その契約記念といったところだろうか。広い店内が、人という人で埋め尽くされた。共演者にはブルーノート盤のプロデューサーも兼ねているジェイソン・モラン(ピアノ)、指の切断事故から蘇ったマーク・ターナー(テナー・サックス)といった大物ミュージシャンの顔も見える。アンブローズはあまり長いソロをとらず、先輩たちを立てていたように感じられた。そこが個人的には大いに物足りなかったが、別のセット(この日は3セットの入れ替え制だった)では野性全開でプレイしたのだろうか。とにもかくにも、ブルーノート盤の出来上がりが楽しみだ。とんでもない逸材で化け物なアンブローズを、ジャズ界はもっともっとリスペクトする必要があろう。
KURT ROSENWINKEL / THE REMEDY
「ヴィレッジ・ヴァンガード」(178 7th Avenue South)にはカート・ローゼンウィンケルが出演していた。ライヴ盤『The Remedy』がなかなか良かったので(といっても2枚組にする必要はなかったと思うが)、ぜひヴァンガードで彼を聴いてみたかったのである。他のメンバーもアンドリュー・ディアンジェロ(アルト・サックス、バス・クラリネット)、エリック・リーヴス(ベース)、ナシート・ウェイツ(ドラムス)と申しぶんない。ディアンジェロのサックスとカートのギターがぶつかりあって火花が散ったら最高だ、と思ったのであるが・・・・・。そうなりそうだなと思ったのは冒頭の1曲目のみで、カートは1時間に満たないステージの半分以上をピアニストとして過ごした。それなら事前に「本日のカート・ローゼンウィンケルはピアノとギターを半々で演奏します」ぐらいの知らせをくれてもよさそうなものだが。「俺は余技のために40ドル払ったんじゃないぞ!」と言いたいほどの気分だった(英語が思い浮かばないのであきらめたが)。エルモ・ホープの隠れ名曲「アイズ・ソー・ビューティフル・アズ・ユアーズ」を聴けたのが収穫といえば収穫か。とにかくカートは僕の中ではあくまでもギタリストであるし、もしピアノも人前でプレイしようというなら、せめてジャック・ディジョネット級のスケールの大きさがほしい。
残りスペースが少なくなってきた。「スタテン・アイランド・ズー」(614 Broadway Staten Island)には、コットントップ・タマリンがいた。名づけてスタテン・ウキちゃん。マンハッタンのド真ん中、セントラル・パーク・ズーにいるウキちゃんに比べると動きはややのんびりしている。とはいっても移動の速さは余裕で音速を超えているだろう。肉眼では捉えきれない。この動物園、入り口にはやけにお茶目なハコフグがいて、アルパカ状の動物はほぼ放し飼い状態だった。僕は♪ハコフグだってアルパカだってみんなみんな生きているんだ友達なんだ~と歌いながら、スタテン・アイランドを後にした。
 ハコフグ  アルパカ状  スタテン・ウキちゃん




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 2010/08/25 原田和典のJAZZ徒然草 第60回

残暑なんて吹っ飛ばせ! 真夏のニューヨークにはアフリカの風が吹き荒れていたぜ
6月下旬から7月上旬にかけて出かけてきた。考えてみれば夏ド真ん中のニューヨークに足を踏み入れるのは初めてだ。
「あそこの夏はとんでもなく暑いよ」という話は、真夏のニューヨークを知るいろんなひとからきいていた。が、僕はどこかでそれを軽く聞き流していた。「だって東京だってどうしようもなく暑いし、しかもしめっぽい。マンハッタンは川に囲まれているのだから、体感温度は日本の8掛けぐらいなんじゃないだろうか」と思ったからだ。
が、とんでもなかった。体感温度、東京の120%増し。太陽がじりじり、ぎらぎらと光っては皮膚を刺しにかかるだけでもしんどいのに、突如スコールが襲ってくるし、それが止んだかと思えば再び太陽が照りつけて大気を蒸し風呂状態にする。しかも困ったことにニューヨークの街角には日陰がないのだ。防犯上の理由があるのかもしれないが、とにかく“ひと息つける場所”が室内にしかない。もしくは舗道にハミでたレストランのテラスか。
だというのに夏の野外ライヴは相変わらずいいミュージシャンを揃えて午後2時とか3時ぐらいからガンガン盛り上がっている。そして多くの観客が会場につめかけ、立ち上がり、踊っている。もちろん日焼け対策なんてチマチマしたことはしていない。皮膚の焼けるままに。太陽を浴びるままに。踊り、歌い、叫ぶ。日本人はこういう民族と戦争をしていたのか・・・と改めて環境適応能力の違いを思い知った。
日焼けを恐れつつ、「セントラル・パーク・サマーフェスタ」への道を急ぐ。会場は同パーク内、72丁目近辺にある「ラムゼイ・プレイフィールド」。ペットボトル持ち込み禁止、プロ用機材のカメラ持ち込み禁止であり、入り口でかなり細かい持ち物チェックを受けるが、入場料はフリー(任意。払いたくなければ払わなくてもいい。逆に払いたければいくら払ってもいい)だし、出演者に魅力的な面々が揃っているので、つい足を運んでしまう。僕が見たのはティナリウェンと、その翌日におこなわれたギル・スコット=ヘロンのステージだ。
ティナリウェン
ティナリウェンはアフリカ・マリ共和国を拠点とするトゥアレグ人中心のグループ。パーカッション、ヴォーカル(というよりチャントといったほうがいいか)、そしてどことなくジミ・ヘンドリックス的なエレクトリック・ギターが巧みに混ざりあう。結成は1982年とのことだが(79年説もある)、世界的な存在になったのは今世紀に入ってからだろう。2005年の来日公演には残念ながら行けなかったので、待望の“初・生ティナリウェン”をようやく体験できたわけだ。僕はアフリカの血が流れているであろうオーディエンス(その中には、チケットを買ってライヴに行くという習慣のない人も少なくなかったのではと思う)の間に入り、彼らのノリを感じながらティナリウェンの音楽を体内に思いっきり注入した。
ギル・スコット=ヘロン(右側)
翌日のギル・スコット=ヘロンは良くも悪くも“大御所によるエンタテインニングなステージ”と呼ぶべきものであった。今の彼に、名作ライヴ盤『イッツ・ユア・ワールド』の緊張感、「ザ・レヴォリューション・ウィル・ノット・ビー・テレヴァイズド」の、今にも襲い掛かってきそうな迫力を求めてはいけないのか。曲と曲の間をジョークでつなぐギルはすっかり好々爺という雰囲気であった。淡々としたキーボード・プレイ、昔ほど声は出ていないがそれでも味のあるヴォーカルは、僕の心を十分に揺さぶってはくれたが・・・。最後はおなじみの「ザ・ボトル」で観客とコール&リスポンスを繰り返した。1949年生まれなのだからまだ還暦を過ぎたばかり。内田裕也ミック・ジャガーより若い。矢沢永吉と同い年。まだまだ燃え上がれるはずだが。
ユージーン・オニール・シアター
“よし、燃え上がろう”と、「ユージーン・オニール・シアター」(230 West 49th Street)への道を急ぐ。ナイジェリアの音楽家、フェラ・クティの生涯をたどったミュージカル「フェラ!」を見るためだ。いわゆるオフ・ブロードウェイ作品とはいえ、それでも高い席だと120ドル以上とられる。僕は当日券売り場に並び、一番安い席を買おうと思っていたのだが、1Fのオーケストラ席に空きがあるとのことで、定価の3割引で特等席に座ることができた。おかげで役者たちの驚異的な身体能力、マイクなど必要としないほど通る声、フェラの住居“シュライン”を再現した内装等を、超至近距離で味わえた。
フェラ役に扮したSahr Ngaujahはナイジェリア出身の両親を持つアメリカ人だという。ルックスはフェラに似ていないが(Sahrのほうがイケメンで筋肉質だ。背も高いのではなかろうか)、このくらい美化したほうが故人へのはなむけにはなるのかもしれない。
演奏はフェラ亡きあとアフロ・ビートの伝統を受け継ぐ(といわれている)アンティバラスが担当。Sahrの吹奏場面は、アンティバラスのサックス奏者のプレイにあわせて当て振りしたものだが、マウスピースへの息の吹き込み方、指使い等、彼自身がサックスを吹いているように見えるのはさすがニューヨークの舞台俳優である。僕がアンティバラスの演奏を初めてアルバムや生で聴いたのは7,8年前かと思うが、フェラの伝記ミュージカルの音楽を任されているという緊張感は見事にプラスに作用しているようだ。以前のような線の細さ、同好会くささが払拭されたプロの音になっていた。だからといってフェラ存命中の音源と比べる気は起きないけれど・・・。バリトン・サックス奏者として、ベテラン・ミュージシャンのアレックス・ハーディングが“補充”され、図太い低音を響かせていたのが嬉しかった。
「フェラ!」宣伝の車

裕福な家に生まれたフェラがロンドンに行き、ジャズを知り(セリフの中にタビー・ヘイズの名も出てくる)、その後アメリカのR&Bに出会いジェームズ・ブラウンニーナ・シモンに心酔、さらにジョン・コルトレーンの音楽にハマり、ガーナのハイライフ・ミュージックを演奏し、68年(キング牧師の暗殺された年)に渡米、ブラック・パンサー党などと連帯することで黒人意識に目覚めていく・・・・そのあたりのことが実にテンポよく描かれていた。セリフは基本的に英語だが、フェラの特徴あるそれ(ナイジェリア訛り)を再現していたのも芸が細かい。「エクスペンシヴ・シット」(高価な糞)、軍隊を批判した「ゾンビ」、ナイジェリアの金儲け企業を国際窃盗団にたとえた「I.T.T.」等の代表曲もとりあげられていたし、母フンミラヨが彼に与えた深い影響(権力に屈しない。偉くなくとも正しく生きる)も改めて知ることができた。
フェラは一夫多妻制を貫いたが、ミュージカルにも二十何人の妻兼ダンサー兼シンガーが登場。そのバラエティに富んだ衣装や髪型を見ると日本や西洋の女性ファッションはなんと画一的なのかと思えてくる。劇中では、妻やフェラたちが1000人の軍隊によって不当な暴力を受けた場面(1977年の出来事)が淡々とナレーションで再現されたが、それがあまりにも淡々としているために場内からは嗚咽がもれた。「誰それ、何歳。局部にペンチを突っ込まれ、失神。その後、殴られて死亡」。「誰それ、何歳。妊娠中であったが、腹をけられ、母子共に死亡」などなど(メモを取らずききとったので、いささか差異はあるかもしれないが)。権力をかさにきた鬼畜たちの暴力を受けながらもフェラは必死に立ち上がり、あの輝かしい音楽を創り続けたわけである。
   
ティナリウェン/IMIDIWAN: COMPANIONS ギル・スコット・ヘロン/IT'S YOUR WOLRD フェラ・クティ/ゾンビ

翌日、僕はハーレムに行きマイケル・ジャクソンの1周忌を悼み、その後「黒人芸術展」(ロメア・ベアデン等)、「黒人解放パネル展」を見て、ロウアー・イーストサイドに移動して「ヴィジョン・フェスティバル」でアミリ・バラーカ(リロイ・ジョーンズ)やジェイン・コーテスの朗読を聴くのだが、これについては次回に譲る。
というのは今度来日するコンゴのバンド“スタッフ・ベンダ・ビリリ”について、最後にぜひ触れておきたいのだ。『屈強のコンゴ魂』という邦題のついたアルバムを聴いて、「これはぜひナマで浴びたい音だなあ」と思っていたら、9月下旬から10月中旬にかけて各地をツアーするというではないか。その日程は各自調べていただきたいが、彼らの実演はライヴの最大の魅力である“一期一会の醍醐味”をフルに味わわせてくれることだろう。メンバー8人のうち6人が歌も歌い、楽器は殆ど手作り(個人的には「だんご3兄弟」みたいなパーカッションが印象的だ)。僕は日比谷野音の公演のチケットを買ったが、皆さんの近所に彼らが来たら聴きにいっても絶対に損はしないはずだ。そして音楽の歓びにつつまれてほしい。スタッフ・ベンダ・ビリリというグループ名だけに、ビリビリくるようなライヴをしてくれることを、僕は心から楽しみにしている。

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 2010/07/25 原田和典のJAZZ徒然草 第59回

ウェブスター・ヤング、ジーン・ショウ、デュプリー・ボルトン。忘れるにはあまりにも惜しい、味のあるトランペッターについて紹介させてもらうぜ
ディスクガイドシリーズ ジャズ・トランペット
この7月13日、ようやく僕の監修した『ディスク・ガイド ジャズ・トランペット』(シンコーミュージック・エンタテイメント)が発売された。既刊の『ディスク・ガイド ジャズ・ピアノ』、『ディスク・ガイド ジャズ・サックス』に続く第3弾である。もちろんディスクユニオン各店でもバリバリに取り扱いいただいているが、なにしろ、この時勢である。あんな長い歴史を誇った有名雑誌があっという間に消え去ってしまう世の中だ。右を向いても左を向いても不況、不況。そんな毎日の中で、しかもジャズの本を出せるのは、奇跡に近いことである。とはいっても売り上げが芳しくなければ次が来ることはないし、ひいてはジャズ関連本、音楽関連本の市場がさらに縮小されていくことにもつながる。定価に見合った以上の内容にするべく身を削ったつもりだ。ぜひお手に取っていただきたい。そしてご購入いただければ幸いだ。よろしくね♥
そこで今回は『ジャズ・トランペット』をよりマニアックに楽しむための文章を書かせていただく。
昔からポップスの世界では、いわゆる一発屋のことを“ワン・ヒット・ワンダー”という。が、これはあくまでも1曲大ヒットを残した歌手に対して言われることで、じっさいのところそのシンガーは複数枚のレコードを出していることが珍しくない。今回、さまざまなトランペット奏者について書いていくうちに改めて気づいたのは、“ワン・ヒット・ワンダー”ならぬ“ワン・アルバム・ワンダー”の多さだ。ただ1枚のリーダー作と、数枚のサイドメン参加作を残してジャズ・シーンの中央から去った実力派たちを本稿では紹介する。
ウェブスター・ヤングという名前をきいて、「ああ、あのひと」かと即座に思い出せるのは相当なハード・バップ・フリークだろう。リーダー作はプレスティッジに『フォー・レディ』があるのみ(一時期、私家版LPが出回ったこともあるが)、サイドメンとしてはジャッキー・マクリーン(『アンド・カンパニー』、『メイキン・ザ・チェンジズ』、『ファット・ジャズ』他)やプレスティッジ・オールスターズ(『インタープレイ・フォー・2トランペッツ&2テナーズ』)の作品に加わっている。いずれも1957年録音であり、アルト・サックス奏者ジョン・ジェンキンス同様、ジャズ・レコーディング上では“パッと現れてパッと消えた幻の人”扱いされているのではなかろうか。
が、それはウェブスター・ヤングが短命だったということを意味しない。彼は地元ワシントンDCに戻り、プレイヤー、指導者、教育者として、実り多い晩年を過ごしたのだ。本名をウェブスター・イングリッシュ・ヤングという彼はサウスカロライナ州コロンビアで生まれた。間もなく母親の故郷であるワシントンDCに転居、43年に公開されたオール黒人キャストの映画「キャビン・イン・ザ・スカイ」を見てジャズとトランペットの響きに魅せられた。最初に手にしたトランペットは母親からのプレゼントだったという。
ウェブスター・ヤング『フォー・レディ』
その後ハワード・シアターでルイ・アームストロングのライヴに接して感激、楽屋に押しかけてレッスンを受けた。40年代半ばには当時のジャズメン志望の若者と同じくビ・バップにハマリ、ディジー・ガレスピーのプレイをコピー。“リトル・ディズ”と呼ばれたという。プロ活動もこのあたりから始めたようだが、まもなく朝鮮戦争に従軍、日本に駐屯した。ハンプトン・ホーズ(ピアノ)を筆頭にルー・ブラックバーン(トロンボーン)、ハル・ステイン(サックス)、ネイヴィル・トーター(ベース)等、いくつものミュージシャンが進駐軍として滞日したことは、当時を知る我が国のジャズメンやジャズファンの証言に比較的よく登場するが、僕は「ウェブスター・ヤングを日本で見た話」も「ウェブスター・ヤングと共演した日本人ジャズメンの話」も、あいにくきいたことがない。
帰国後はデビュー間もないR&Bシンガー、ロイド・プライスのバンドで活躍。やがてマイルス・デイヴィスのプレイに感銘を受け、知り合いに。「君はニューヨークに来るべきだ」というマイルスの助言を受け、50年代半ば、この大都会に腰を落ち着けた。キャリアの末期に差しかかっていたテナー・サックス奏者レスター・ヤングやピアニストのバド・パウエルとも共演したそうだ。前述した57年の一連の吹き込みの後、60年代前半には西海岸に移住、療養明けのデクスター・ゴードン(テナー・サックス)等とも演奏した。その後はアイク&ティナ・ターナーの音楽監督を務めていたこともあるらしい。
第2の故郷であるワシントンDCに戻ったのは60年代半ばのこと。マクリーンとも再会し、しばしば一緒にプレイしたようだ。ジョン・コルトレーンオーネット・コールマンの影響を受けて、かなり過激なアプローチをとっていた当時のマクリーンと、ヤングがどんな風にわたりあったのか実に興味深い。以後は主に「ユニヴァーシティ・オブ・ザ・ディストリクト・オブ・コロンビア」や「D.C.ミュージック・センター」で教鞭をとりながら、地元のジャズ・クラブに出演したり、映画のサウンドトラックを手がけていたという。また80年代には単身で渡欧し、レイン・デ・グラーフ(ピアノ)とツアーしている。
2003年12月、71歳で死去。ウェブスター・ヤングは決して“幻のミュージシャン”ではなかった。

クラレンス・ショウというトランペッターを御存知だろうか。1957年、チャールズ・ミンガスのバンドに大抜擢。ユニークな音色とアプローチで注目を浴びたが、いつしか中央のジャズ・シーンからフェード・アウト。62年にジーン・ショウという名前でカムバックしたものの、いつしか名前が聞かれなくなった。「80年代に亡くなった」という文章を僕はどこかで読んだことがあるのだが(たしか英国の評論家アラン・モーガンの執筆だったと思う)、ウィキペディアによると、73年8月に47歳で亡くなっているようだ。デトロイト生まれのショウは当初ピアノやトロンボーンを演奏していたという。軍隊でケガをして、その療養中にディジー・ガレスピーのレコード「ホット・ハウス」を聴いてジャズ・トランペッターを志すようになったそうだから、典型的な“ビ・バップ世代”といえる。デトロイト音楽院では3歳年下のバリー・ハリス(ピアノ)に師事、56年ニューヨークに進出した。ミンガスの『イースト・コースティング』や『ティファナ・ムーズ』(62年発表)に参加するのはその翌年だが、58年にミンガスが行なったレコーディングにショウの名はない。
チャールズ・ミンガス『イースト・コースティング』

次にショウの名前が聞かれるようになるのは62年のことだ。『ティファナ・ムーズ』の解説文でミンガス自身が「素晴らしいトランペット奏者だった。今はどうしているのだろう。消息を知りたいものだ」というようなことを書いたのも、ショウ捜索につながったのかもしれない。
彼はシカゴに引っ越していた。そして同地の若手ミュージシャンたちと交流した(その中には、当時ピアニストだったジャック・ディジョネットもいる)。地元の有力レーベル、チェスのジャズ部門であるアーゴがショウに目をつけた。ジーン・ショウと名を改めた彼はアルバム『ブレイクスルー』、『デビュー・イン・ブルース』、『カーニヴァル・スケッチズ』を吹き込んだ。息も絶え絶えといった感じのトランペット・プレイは実にブルージーであり、ソウルフルであり、意外にもパワフルですらあった。しかし64年、彼はまた活動を休止する。一説にはミュージシャンと催眠術師を兼業していたともいわれるが、催眠術業が忙しくなったのだろうか?

以上2人は『ディスク・ガイド ジャズ・トランペット』で紹介したけれど、デュプリー・ボルトンは泣く泣くラインナップから外した。彼の主な参加作はカーティス・エイミーの『カタンガ!』、ハロルド・ランドの『ザ・フォックス』。人生の殆どをジェイルで過ごした悲運のトランペッターである。2008年には初のボルトン名義の作品『ファイアーボール』がアップタウン・レーベルからリリースされたが、これは62年にエイミーのバンドでテレビに出演したときの演奏+63年パシフィック・ジャズに残した未発表録音(やはり超幻のサックス奏者、故アール・アンダーザが参加)+80年の刑務所バンドの演奏をまとめたコンピレーションだ。63年分を除いて音質は良好といえず、演奏内容にもムラがあるので、“ビギナーにもマニアにもジャズ・トランペットの楽しさを伝える” 『ディスク・ガイド ジャズ・トランペット』には不適格かなと思ったのである。が、この「JAZZ徒然草」を読んでおられるヘヴィー級ジャズ・フリークのみなさまであれば恐らく、いろんな角度から『ファイアーボール』の持つ意義、サウンドの中に眠る奥深さを見つけることであろう。
本名はデュプリー・アイラ・ルイス・ボルトン、1929年3月3日オクラホマ・シティに生まれた。40年代初頭にロサンゼルスに移り、やがてジェイ・マクシャンのバンドに参加した。44年にはニューヨークに進出、バディ・ジョンソンのオーケストラで演奏している。ロサンゼルスに戻ってからはベニー・カーター楽団でも演奏した。彼の中で何かが狂い出したのはいつごろからなのか定かではないが、56年8月には小切手偽造の罪で3年間の服役を言い渡されている。したがって59年8月録音の前述『ザ・フォックス』は、社会復帰直後の記録であるが、音色の輝き、フレーズの冴えともども、彼がコンスタントに活躍を続けていれば、ジャズ・トランペットがさらにどれだけ豊かになっただろう、と天を仰ぎ見ずにはいられないほどの充実ぶりだ。なのにその後、ボルトンは再び塀の中の人となる。
久々にシャバの空気を吸ったボルトンに声をかけたのはサックス奏者のカーティス・エイミーだった。復帰作『カタンガ!』の出来に気をよくしたパシフィック・ジャズ社のオーナー、リチャード・ボックはボルトンの売り出しを考える。飛ぶ鳥を落とす勢いだったニューヨークのリー・モーガンフレディ・ハバードに対するロサンゼルスからの回答をボルトンに求めたわけだ。が、いつもけんか腰で、レコーディング中に他のミュージシャンと殴りあいを始めるボルトンに、ボックの熱意は一気に冷めた。
次にボルトンの名が音楽シーンに登場するのは70年代後半、彼がレイ・チャールズ・オーケストラのヨーロッパ・ツアーに参加したときのことだ。その後、故郷オクラホマに戻ったものの、まもなく文書偽造の疑いで逮捕(証拠不十分で釈放)。家宅侵入罪でも手錠をかけられたが、それとは別にヘロイン+コカイン+拳銃の不法所持が発覚したことでジェイル行きは逃れられないものとなった。『ファイアーボール』後半の4曲は、その直後、オクラホマ・プリズン・バンドによるパフォーマンスである。「これで5回目のムショだよ」、とボルトンはバンド仲間に語ったそうだ。
1993年6月5日、ボルトンはカリフォルニア北部の病院で糖尿病と動脈硬化における心拍停止のため他界した。遺品のなかにトランペットはなかったという。

★近況報告
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 2010/06/25 原田和典のJAZZ徒然草 第58回

“ジャズ界の火野正平”アーティ・ショウのビッグ・“バップ”・バンドは、あまりにも短命だったぜ
ピアニスト、ハンク・ジョーンズが亡くなった。享年91だから大往生の部類に入るのだろうが、つい先ほどまで来日を繰り返していただけに、なんとも形容しがたい感慨を抱く。今年2月に東京で話をきいたときも、耳は遠くなかったし、記憶力も良かったし、足取りもしっかりしていたのだが・・・。ハンク亡き後、ジャズ界の最長老は誰なのだろう。現役ミュージシャンということではビリー・テイラー(1921年生まれ)あたりになるのだろうか。いや、ハンクより4ヶ月年上、1918年3月生まれのマリアン・マクパートランドがいるぞ。でもハンクのような“精力感”は薄いなあ。
今回の主人公、アーティ・ショウは94歳まで生きた。1910年5月23日、Arthur Jacob Arshawskyというユダヤ系アメリカ人としてニューヨークに生まれ、1930年代から40年代にかけてはベニー・グッドマングレン・ミラーと共にスイング・ブームを牽引した。World Peace Congressという所属団体での活動が“左翼的だ”として米国下院非米活動調査委員会(共産主義者の調査摘発に重点をおく組織)に召喚された53年あたりから演奏活動を縮小し、55年に人前で演奏することをやめてしまった。稀代のモテ男として知られ、歴代の女房にはラナ・ターナー(「ジキル博士とハイド氏」、「青春物語(Peyton Place)」)、エヴァ・ガードナー(「ショウ・ボート」、「キリマンジャロの雪」。のちフランク・シナトラ夫人)、イヴリン・キーズ(「風と共に去りぬ」、「七年目の浮気」)といった美人女優たちもいる(彼は計8回、結婚した)。ショウのところに在籍した面々にはバディ・リッチ、デイヴ・タフ、メル・トーメヘレン・フォレストビリー・ホリデイ(ほんの短期間)、ジョージー・オールドロイ・エルドリッジレイ・コニフ(当時はトロンボーン奏者。50年代にコーラス・グループを結成してポップスの人気者に)、ビリー・バターフィールドバーニー・ケッセルタル・ファーロウ、そしてハンク・ジョーンズと、数え切れないほどの俊英がいる。
本稿では“スイング・ブーム”と“赤狩り”(といっていいだろう)の間にショウが率いた幻のビッグ・バンドについて触れてゆくのだが、まずは彼の半生を駆け足でたどってみよう。
8歳のとき、故郷ニューヨークからコネチカット州ニューヘイヴンに移住。10歳でウクレレ、12歳でアルト・サックスを始め、16歳でクラリネットに転向した。大抵の木管楽器奏者はまずクラリネットを習得してサックスに向かうのだが、ショウの場合は逆だった。本格的なプロ入りは1925年、ジョニー・キャヴァラロなる人物のバンドにて。オハイオ州クリーヴランドではオースティン・ワイリーのバンドで演奏、29年にアーヴィング・アーロンソン率いるコマンダーズに在籍とあるが、このあたり、今となっては確認しようもない。20年代後半にはニューヨークに戻り、ウィリー・ザ・ライオン・スミス(ピアノ)の知己を得た。若き日のデューク・エリントンに影響を与えた“ハーレム・ストライド・ピアノのボス”と、ショウはいったい何を演奏したのであろうか。
30年代初頭のショウはセッション・ミュージシャンとして多忙だったと伝えられるが、ジャズマンとしてはまだ認識されていなかったようだ。33年になると音楽界から去ることを決意、彼のもうひとつの才能である“文章力”を生かした仕事に就こうと考える。しかしやはり音楽から離れがたかったのだろう、カムバック後の36年に最初のバンドを結成した。“ディキシーランド・ジャズと弦楽四重奏を一緒くたにしたようなバンド”だったというのだから相当にアヴァンギャルドなものだったはず、当然ながら商業的な成功を得ることはなかった。よりスインギーでダンサブルな方向に、ショウがバンドの模様替えをしたのは37年末ごろのようだ。
当時のアメリカはスイング・ブームに沸いていた。それまでジャズを黒人の騒がしい何かと忌み嫌っていた層が、白人ビッグ・バンドの表現を“ジャズとは別個の新しいアメリカの音楽”として受け取り、快哉を叫んだ。もとからジャズを知らない層も、スイング・バンドの軽妙な響きにダンスのステップを踏んだ。1938年、「ビギン・ザ・ビギン」を引っさげてアーティ・ショウ・オーケストラはヒット・チャートに参入する。38年といえばベニー・グッドマンが「カーネギー・ホール」で歴史的なコンサートを開いた年、文字通りスイング・ミュージックの最盛期である。ショウはこの1曲でグッドマンの牙城に迫るスイング・スターとなった。マスコミはこう煽った。“キング・オブ・スイングはグッドマンだが、キング・オブ・クラリネットはショウその人である”。
39年にはまたもビッグ・バンドを解散、40年にストリングスを加えて再結成したけれど一時的なものに終わり、間もなく通常のビッグ・バンド編成に戻した。「フレネシ」、「ムーンレイ」、「ナイトメア」、「コンチェルト・フォー・クラリネット」は当時のショウのみならず、アメリカのスイング・ミュージック熱の高まりを今日に伝える名演だ。別働隊の“グラマシー・ファイヴ”は、ビッグ・バンド内コンボというべき存在。「サミット・リッジ・ドライヴ」は100万枚を超える売り上げを示したという。ジョニー・ガルニエリのハープシコードを用いたサウンドは、僕にとって40年代後半のクール・ジャズを先取りしたような観を抱かせる。余談だが戦後まもない日本ジャズ界に咲いたバンド“グラマシー・シックス”の命名は、このユニットに因んだものである。スイング全盛期はまた、世界大戦の時代とも微妙にかぶっている。41年に再びビッグ・バンドをたたんだショウは、42年から1年半の間、アメリカ海軍ビッグ・バンドのリーダーとして兵士の慰問に明け暮れた。グレン・ミラーの空軍バンドに匹敵する良い音を出していたことが想像できるものの、録音は現在まで発見されていない。44年後半にはビッグ・バンドを再結成、ドド・マーマローサバーニー・ケッセル等、1920年代生まれの若者を見事に溶け込ませたサウンドからは、スイング・スターの座を保持することに満足しなかったショウの姿勢が伝わってくる。
そもそもショウは1930年代から先見の明があった。モダン・ジャズ期から盛んにとりあげられるようになった「ソフトリー・アズ・イン・ア・モーニング・サンライズ」、「オール・ザ・シングス・ユー・アー」、「アローン・トゥゲザー」などを、彼はビ・バップの勃興以前にいち早く演奏していたし、セロニアス・モンクより前の1945年に「ミステリオーソ」という曲を自作自演したのもショウである。しかし46年、またしても彼はビッグ・バンドを解散してしまう。「ジャズに興味がなくなったから」ともいわれるが詳細は定かではない。レナード・バーンスタイン指揮のニューヨーク・フィルハーモニーとクラシック・コンサートを開いたのは40年代後半のことだ。
この休息期間中、猛烈な勢いでジャズ界を席巻したのがビ・バップであった。当初は一部の尖鋭的な黒人ミュージシャンがニューヨークの一部で演奏するアンダーグラウンドな前衛音楽に過ぎなかったのだが、やがて多くの若手白人ミュージシャンが共鳴しはじめ、結果として(彼ら若手を擁する)多くのビッグ・バンドが“バップ化”した。ショウの目の上のタンコブであったろうベニー・グッドマンはチコ・オファリル他の譜面を使い、ファッツ・ナヴァロワーデル・グレイを迎え入れ、楽器奏者としてはショウより遥かに格下なウディ・ハーマンは20代の精鋭をずらりと揃えてバップ街道を驀進していた。それに刺激されたというわけでもないだろうが49年9月14日、ショウはボストンの「シンフォニー・ホール」でバップ系の若手たちを迎えた新ビッグ・バンドの旗揚げ公演を行なう。ハーマン楽団からズート・シムズアル・コーンハービー・スチュワードが移籍、ピアノはドド・マーマローサが継続して担当し、ジミー・レイニーがギターを弾き(彼も元ハーマン組)、トランペット・セクションにはドン・ファガーキストがいた。作編曲はコーン、ジョニー・マンデルタッド・ダメロンジョージ・ラッセル(!)等。このメンツを見るだけでも新境地にかけるショウの意気込みが伝わろうというものだが、ツアーは大失敗。新ビッグ・バンドは半年たらずで幕を閉じる。
“グレイトなバンドがやっとスタートしたんだ。ものすごくモダンな、オレが今まで持った中で最高のバンドだったよ。なのに短期間で解散するハメになってしまった。オレたちの新しくてすごいサウンドを、誰も聴いてくれないからだ。彼らが欲しがるのは、スタンダードやポピュラー・チューンばかりなんだよ”。
評論家レナード・フェザーの取材に、忸怩たる思いをぶちまけたショウの胸中は察するに余りある。50年代後半から約半世紀の間、ショウはヨーロッパや南米、アメリカを転々として余生を過ごした。その間の81年にはアーティ・ショウ・オーケストラの新結成と名称使用を許可している(クラリネットはディック・ジョンソンが担当した)。ショウ自身もたまに指揮棒を振ることがあったそうだが、一度も日本の土を踏むことのないまま亡くなってしまった。
Artie Shaw and His Orchestra: 1949
音楽性と人気が気の毒なほど一致しなかったビッグ・バップ・バンドの演奏は、ミュージック・マスターズ盤『Artie Shaw and His Orchestra: 1949』、フレッシュ・サウンド盤『The Artistry of Artie Shaw and his Bop Band 1949』、ヘップ盤『Cool Daddy: Experiments With Be-Bop』で聴くことができる。
The Artistry of Artie Shaw and his Bop Band 1949
マスターズ盤とフレッシュ盤は曲順こそ違うが同内容。マスターズ盤のライナーノーツは、グッドマンとショウの研究家で自らもサックスやクラリネットを吹くローレン・ショーンバーグが書いている。年明け早々ヘップから登場した2枚組『Complete Thesaurus Transcriptions 1949』は『Cool Daddy』の増補改訂版というべき作品で、往年のスイング・ナンバーの再演もかなり入っている。つまりショウが最後に持ったビッグ・バンドは必ずしもバップ100%、最新のサウンドばかりでプログラムを構成していたわけではなかった。なのにどうして、数ヶ月で行き詰まるほどウケなかったのか謎だ。「Similau」、「Aesop’s Foibles」、「So Easy」、「Afro-Cubana」あたり、今のビッグ・バンドがリバイバルさせたら拍手喝采だと思うのだが・・・・。
Complete Thesaurus Transcriptions 1949


★近況報告
『ディスク・ガイド ジャズ・トランペット』(シンコーミュージック・エンターテイメント)が完成間近です。7月下旬発売予定。もう少しお待ちくださいね。『ディスク・ガイド ジャズ・ピアノ』(同)、『ディスク・ガイド ジャズ・サックス』(同)は大好評発売中です。よろしくお願いします! 『猫ジャケ』、『猫ジャケ2』(ミュージック・マガジン)、ともに大好評発売中です。『原田和典のJAZZ徒然草 地の巻』(プリズム)もディスクユニオン各店で絶賛発売中です。リマスター完備、新規原稿50%増し(当社比)なので、ウェブ上の「徒然草」とは別物と断言してよいでしょう。個人ブログ「ブログ人」、私も混ぜてもらっているウェブサイトcom-postもバリバリに展開中です。

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 2010/05/26 原田和典のJAZZ徒然草 第57回



“生録り”スモールズ・ライヴをひとりでも多くのひとに聴いてもらいたいぜ
日本にいて、いや、日本以外のどこにいても同じように、パソコンひとつあればニューヨークのジャズ・ライヴの生中継が楽しめる。
こんな驚きの企画をおこない、大反響を呼んでいるのがグリニッチ・ヴィレッジにある「スモールズ」である。ウェブサイトに飛ぶと、店内に固定されたカメラがミュージシャンたちの熱演をリアルタイムで伝えてくれるのだ。同店の営業時間は、いわゆるイースタン・スタンダード・タイムの午後7時半から午前3時ぐらいまで。日本とは約13~14時間の時差があるから、こちらで見ようとすると午前9時半ごろからパソコンの前にへばりついていればステージの中継に立ち会えるということになる。日本にいながらにして、画面の前にいながらにして、ニューヨーク・ジャズの息吹が楽しめるのだから(しかも原則無料で。ドネイションは任意)。運がよければ店内を徘徊する“スモールズ猫”の姿も見ることができるかもしれない。今みたらちょうどアレックス・シピアギンが渾身のプレイを繰り広げていたが、難点はひとつ、これに見入ってしまうと仕事が進まないことだ。
「スモールズ」はCD方面でも絶好調である。ディスクユニオンから国内仕様盤として発売されているスモールズ・ライヴ・シリーズは始まったばかりだというのに、もう11種に達した。これらアルバムの特徴は、“生録り”であること。クラブの特等席にMP3を括りつけて録音、それをそのままディスク化したような(よくいえば)手作り感、生々しさが特徴だ。何本もマイクを楽器のそばに立てて、それをミキシングする、というような大手レコード会社のCD作りとはコンセプトが異なる。だからドラムス以上に大きな音のピアノが左右のスピーカーを動き回るということはないし、ブラッシュの“さすり”がいちばんでかくてその中に各楽器が点在しているような音作りもない。決して広いとはいえないクラブの中で、各ミュージシャンが生き生きと演奏している事実だけが、“場の空気”を伴ってしっかり収められている。可能な限りボリュームをあげて楽しみたいアルバム群だ。
話はライヴ中継に戻るが、このコンセプトが実現するまでには、おそらく相当なディスカッションが繰り返されたことだろう。「パソコンでライヴが見れるなら、わざわざ現場に行かなくていいや」というジャズ・ファンだって現れるに違いないからだ。しかしこの中継、やってくれてよかった。「スモールズ」については過去いろんなライターが書いてきたはずだし、僕もいくつもの媒体で触れてきた。だが、くやしいけれど「百聞は一見にしかず」。スモールズの店内の雰囲気までは文字で描写することができなかった。中継を見たファンの9割はこう思うはずだ。「こんな雰囲気でライヴをやっているのか。よし、こんどニューヨークに行ったらスモールズに行こう」、と。画面を見ているうちに、自分もその“中継の場”にいたい、という欲望が湧いてくる。これはものすごい宣伝効果だと思う。
日本におけるプロレス勃興期がそうだったというではないか。ハワイ修行から戻ってきた力道山が「プロレスを流行らせたい。そのためにはテレビ中継が必要不可欠だ」と言った。しかし一部のお偉方はこう考えた。「テレビで中継されたら、実際の試合に誰も来なくなるんじゃないか」。しかしそれは杞憂だった。高いところにぶら下げられた14インチの白黒街頭テレビでプロレスの魅力を知った人々は、次はぜひ生でこれを味わいたいと、長蛇の列をつくってチケットを買い、競技場を埋め尽くしたのである。 これからどんどんどんどん「スモールズ」式の生中継がウェブ上で増えていくような気がする。そういえば「ヴィレッジ・ヴァンガード」のライヴ演奏も、一部だがウェブサイトで楽しめるようになっている(音源のみ)。いまや「情報」とは自分でアクセスして掴むものである、ということが決定的になった。
以下、素敵な“生録り作品”の簡単な解説である。タイトルはすべて『ライヴ・アット・スモールズ』。 

●シェイマス・ブレイク
思えば2008年発表の『Live In Italy』(Jazz Eyes)も09年発表の『Bellwether』(Criss Cross)も大変な力作だった。前者はライヴにおけるシェイマスがいかに暴れ馬と化すかを克明に捉え、後者はラーゲ・ルンド、デヴィッド・キコスキー、マット・クロヘシー、ビル・スチュアートと組んだ現シェイマス・ブレイク・クインテットがとてつもなく完成度の高い世界を作り上げていることを伝えてくれた。本アルバムは乱暴に言えば、上記2枚の美点を足して割ったもの。一分の隙もない音作りで進行形アコースティック・ジャズの先頭を走るクインテット+小クラブにおけるライヴというセッティングが化学反応を起こし、炸裂してゆくさまが味わえる。大好き♥
●ニール・スミス
このラインナップでは最も知る人ぞ知る存在かもしれない。晩年のヴァーネル・フォーニア(いわゆる伝説のアーマッド・ジャマル・ トリオのメンバー)やグレッグ・バンディなど、定評ある“名脇役ドラマー”に奏法をみっちりと習ったドラマーだ。とはいってもここで彼は別に長大なソロを 演じているわけではない。あくまでもソリストを引き立てながら、バンド全体をスイングさせることに心血を注いでいる。参加メンバーではマルグリュー・ミ ラーが風格あるタッチでごきげんにスイングする。リーダー作を含めても、このくらい乗りまくったミラーの吹き込みは少ないように思う。
●ジム・ロトンディ
エリック・アレキサンダーやデヴィッド・ヘイゼルタインと組み続けてどうしてゆくつもりなのかとも思うが、ロトンディのプレイはとにかく安定している。全身をそのトランペットの響きに任せることができる、といえばいいか。しかも溢れんばかりのスイング感、「いいフレーズを吹くねえ」と感心せずいられない歌心がある。一度徹底的に粘っこく、煽りまくるリズム隊をバックにワン・ホーンで吹きまくったらすさまじい作品ができるのでは、とも思うのだが、ロトンディは気心の知れたメンバーとの共演こそが自分に最もふさわしいセッティングと考えているのかもしれない。

●イーサン・アイヴァーソン+アルバート・ヒース
ザ・バッド・プラスのピアニストであるイーサンの、本当に久々のリーダー作。“スタンダード弾き”としての彼を、このアルバムで初めて知るファン も多いのでは。しかも本アルバムでは、大ベテラン・ドラマー、アルバート・“トゥーティ”・ヒースが特別参加している。イーサンのピアノはあえて、という わけだろうか、マル・ウォルドロンやフレディ・レッドに通じる淡々としたもの(彼はレッドの大ファンである)。ヒースはサポートに徹している。誇張のない 音質によって捉えられたブラッシュ・ワークは、年代ものの果実酒のようにかぐわしい。

●プラネット・ジャズ

スモールズのハウス・ピアニスト的存在であるスパイク・ウィルナーが中心となった6人組グループ。ハーレム派ラグタイム・ピアノの巨匠ウィリー・ザ・ライオン・スミス(若きデューク・エリントンにも影響を与えた)に関する著作『The Lion of the Piano: 8 Compositions by Willie the Lion Smith』を上梓してもいるウィルナーだが、このバンドではハード・バップに徹している。ワン・フォー・オールの好敵手という声もあるようだが、よりワイルドにスイングするのがプラネット・ジャズだと僕は思う。ジェリー・ウェルドンのテナー・サックスも良い。

●ライアン・カイザー
近年のライアン・カイザーをすっかり軽んじていた。だがこのアルバムを聴いて彼が大名盤『Power Source』(Criss Cross)以来のエネルギーを保持していることを知った。みずから先頭を切ってサウンドを牽引し、盛り立て、躍動させてゆく。テーマ・メロディをリードするときの凛々しさときたら、まるで進軍ラッパだ。うなり声をあげながらアルト・サックスを鳴らすシャーマン・アービー、盟友ピーター・ザックのピアノ、どれも気合満点。カルロス・エンリケスとアリ・ジャクソンのリズム・チームも日頃ウィントン・マルサリスのバンドで鍛えに鍛えられているだけあって、憎いほど巧い。本作に接して、ライアンの底力を見直すリスナーも多いのではないだろうか。

●ケヴィン・ヘイズ
最近は“ゲイリー・ヴァセイシにジャズ・ピアノを手ほどきした人物”としても知られているケヴィン・ヘイズ。ダグ・ワイス (ベース)、ビル・スチュアート(ドラムス)との共演だ。この3人で一緒にディスクを作るようになってからも約10年の歳月が経つ。しかし彼らの辞書にマ ンネリという言葉はないようだ。コミュニケーションはますます緊密なものとなり、発想は自在に飛翔、3人が各自異なる歌を歌っているかのように楽器を奏で つつも、それが大きな回転を伴いつつ配合され、美しい音楽へと転化する。この日「スモールズ」の店内にいた観客は皆、ケヴィン・ヘイズ・トリオが生み出す サウンドの渦に呑まれてエクスタシー状態に陥ったのではないか。

●デヴィッド・キコスキー
ハンス・グラウィシュニク(ベース)、注目度急上昇のオベド・キャルベイア(ドラムス)との共演。レパートリーの殆どは旧作に収められていたもの、つまり 再演である。しかしキコスキーの頭の中には、かつてその曲をレコーディングしたという記憶など消えてしまっていると思しい。それほど新鮮で、“一発の気 迫”に溢れた演奏が続く。パフォーマンスにまったく“手馴れた感”はなく、緊張の糸がピンと張りめぐらされているのがいい。数多いキコスキーのリーダー作 の中でも、白眉の1枚といえるのではないだろうか。

●ピーター・バーンスタイン
メンバーはピーター(ギター)、リチャード・ワイアンズ(ピアノ)、ジョン・ウェバー(ベース)、ジミー・コブ(ドラムス)の4人。リーダーを替えればそのままコブ率いる“コブズ・モブ”になる。離合集散の激しいジャズ界で、多忙な各メンバーが集まってグループを維持することは容易なことではない。しかし彼らはスケジュールをやりくりしてはライヴ活動やレコーディングを重ね、このCDで聴けるような快演を繰り広げている。先輩を慕いながら嬉々としてスイングする若手と、大いに張り切りつつ熟練の技を開陳するベテランの交歓。そう呼ばずにはいられない爽快なセッションである。

●スティーヴ・デイヴィス
最近ではスタッフォード・ハンターのような凄腕も出てきているが、これほどハード・バップ~モード・ジャズをこなすトロ ンボーン奏者はスティーヴ・デイヴィスをおいてほかにないと断言できよう。共演者が、またいい。マイク・ディルボ、ジェラルド・キャノン、ウィリー・ ジョーンズIIIと、主流派のど真ん中にいる活きのいいところが揃っている。とはいえ彼らの奮闘だけでは、本アルバムは「現代に録音されたモダン・ジャズ のライヴ盤の1枚」に終始していた可能性が高かった。ともすれば小さくまとまりそうなところに、自由奔放なピアノ・プレイで切り込み、波風を立てているの が、フィーチャリング・メンバーとして迎えられた重鎮ラリー・ウィリスだ。筋金入りのピアノが、他のメンバーを盛んに鼓舞する。

●イアン・ヘンドリクソン=スミス
ファンキー野郎、イアン・ヘンドリクソン=スミスはジャズ界でのキャリアと同じぐらいR&B~ファンク界でも経験を重ねている。アル・グリーン、 シャロン・ジョーンズなどと共演、フレッド・ウェスリー率いるJB’sにメイシオ・パーカーの代役として入ったこともある。それらではどちらかというとア ルト・サックスを中心に演奏していたが、ここではテナー・サックスを重視、ルビー&ロマンティックス1963年のNo.1ヒット「Our Day Will Come」やエイミー・ワインハウスの代表曲のひとつ「Love Is a Losing Game」等をセレクションにおりまぜながら、いっそう大衆路線の強化を打ち出している。



★近況報告
2010年ももう半分近くが過ぎました。いろいろプロジェクトが進んでいますが発行が遅れております。なにとぞお待ちのほどを。『ディスク・ガイド ジャズ・ピアノ』(シンコーミュージック・エンターテイメント)、おかげさまで快調です。こんなジャズ・ピアノ本は前代未聞だと思います。買っていただければ幸いです。『ディスク・ガイド ジャズ・サックス』(シンコーミュージック・エンターテイメント)も大好評発売中です。ぜひぜひ、お願いします! 『猫ジャケ』、『猫ジャケ2』(ミュージック・マガジン)、ともに大好評発売中です。『原田和典のJAZZ 徒然草 地の巻』(プリズム)もディスクユニオン各店で絶賛発売中です。リマスター完備、新規原稿50%増し(当社比)なので、ウェブ上の「徒然草」とは別物と断言してよいでしょう。個人ブログ「ブログ人」、私も混ぜてもらっているウェブサイトcom-postもバリバリに展開中です。

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 2010/04/28 原田和典のJAZZ徒然草 第56回

『ジャズ・ミュージシャン3つの願い』を読むと、伝説の巨人たちがグッと身近に思えてくるぜ
いやー、面白い本と出会ってしまった。こういうのがポンと出ちまうと、やっぱり質量共にアメリカにはかなわねえやという気分になる。
 
 ジャズ・ミュージシャン3つの願い
ジャズ・ミュージシャン3つの願い』(ブルース・インターアクションズ)は、あなたがジャズ好きであればあるほど連続的な驚きを与えてくれることだろう。原題は『An Intimate Look at Jazz Giants』。“普段着のジャズ・ジャイアンツ”、もしくは“ジャズ・ジャイアンツ、そのくだけた姿”といったところか。著者はパノニカ・ドゥ・コーニグスウォーター(鈴木孝弥・訳)。誰やねん、その長い名前の人という声もきこえてきそうだが、“ニカ夫人”の本名だといえば、ああ、あのひとかと、会ったことがなくても親しみを覚えるひとも多いのではなかろうか(僕もそうだ)。セロニアス・モンクが「パノニカ」を、ホレス・シルヴァーが「ニカズ・ドリーム」を、ケニー・ドーハムが「トニカ」を(To Nicaをワンワードにした)、フレディ・レッドが「ニカ・ステップス・アウト」を、ジジ・グライスが「ニカズ・テンポ」を、ケニー・ドリューが「ブルース・フォー・ニカ」を捧げた女性、それこそニカ夫人である(ソニー・クラークにいたっては、彼女に「ニカ」、その娘に「ジャンカ」をプレゼントした)。ジャズ界での彼女の知名度ときたら、おちょう夫人やデビ夫人が束になってもかなうまい。『ジャズ・ミュージシャン3つの願い』で、別にニカ夫人は長文の原稿をものしているわけではない。1961年から66年にかけて、親交のあるミュージシャン(やジャーナリスト)に、「あなたの願いを3つ教えてください」と、アンケートを頼んだだけだ。しかし、その結果が面白い。短いものから長いものまで回答はさまざまだが、そのどれにも彼らそれぞれのキャラクターが反映されている。
フィリー・ジョー・ジョーンズチャーリー・パーシップのように「カネ、カネ、カネ」で、3つの願いを埋め尽くすミュージシャンもいれば、ソニー・クラークのように「カネ」と「世界中の女」を望む欲張りなひともいる。ソニー・ロリンズハンク・モブレーも「カネ」を強く望んでいるが、ジョー・ヘンダーソンは「ラヴ、ラヴ、ラヴだ!」と、愛こそはすべてという姿勢を貫いている(余談だがビートルズの「All You Need Is Love」は、“愛こそはすべて”というよりも、むしろ“愛さえあれば”といったニュアンスであろう)。
ビートルズの話が出てきたところで、バド・パウエル等と交流の深かったフランシス・ポードラスのコメントを紹介したい。彼はこう願っている。「ビートルズを素っ裸にしてステージ上で四つんばいにさせ、髪の毛を切り、それから閉じ込めてモンクの音楽を24時間聴かせること!」。ポードラスがアンケートの依頼を受けたのは恐らくビートルズが初めてアメリカを訪れ、社会現象的なブームを巻き起こした1964年のことだろう。この年の夏、バド・パウエルが5年ぶりにフランスから故郷ニューヨークに戻ってきた。そのときポードラスも一緒に“来米”し、ニューヨークのジャズ・シーンを見て回ったのである。
そのパウエルはこんな願いを残している。「医者に診てもらったり、病院に行ったりしなくていい状態」、「日本へ行くこと」。63年に来日したモンクあたりから“日本よいとこ”という話を聞いたのだろうか。パウエルにはぜひ一度来日して欲しかった。瀬川昌久氏、大江健三郎氏、内田修氏は海外で彼のライヴを体験したそうだが・・・。草津で湯治でもすれば病状(パウエルは人生の殆どを、疾病と戦っていた)も少しは良くなったかもしれない。
ベース奏者、ダグ・ワトキンスも「日本に行きたい」とコメントしている。61年に来日し、熱狂的な歓待を受けたアート・ブレイキーあたりから日本の話を聞いたのかもしれない。しかし彼は一度も来日することなく、62年2月に自動車事故で他界してしまった。悔やんでも悔やみきれない損失である。泣けるフレーズといえば、エリック・ドルフィーの「命ある限り、音楽を演奏し続けること」というコメントにも切なくなる。彼は64年、ニューヨークに進出してからまだ5年も経たないうちに世を去ってしまった。
いっぽう、嬉しさの伝わるコメントを残しているのがシンガーのジミー・ラッシングである。いわく、「オレの願いごとのうちに1つは、たった今、叶ってるよ! ここ、日本にいることだ」。ラッシングは63年5月にセロニアス・モンクと、64年3月にエディ・コンドンと来日している。当時の雑誌記事を読むと、日本のジャズ・ファンや評論家が彼の歌を聴いて「これがブルース・ヴォーカルというものなのか!」と驚き、感動したさまがありありと伝わってくる。
60年代はまた、東西冷戦の時代でもあった。そして人種偏見が今よりも表面化していた。ディジー・ガレスピーは「世界の恒久平和」や「パスポートのいらない世界」、エルヴィン・ジョーンズは「地球の平和」、ランディ・ウェストンは「貧困と病気の撲滅」を望み、ウィルバー・ウェアは「世界が、平和と調和の中にあること」、ウェイン・ショーターロニー・マシューズは「これ以上戦争が起きないこと」、ハービー・ニコルズは「世界大戦を回避させられるだけの権力を持つこと」、ハービー・マンは「すべてのいかれた連中が奴らのくそったれな爆弾を使ってふざけるのを止めること」、スティーヴ・レイシーは「戦争に対する資金をすべて、潜在的知性の研究に転用すること」を願った。ウェス・モンゴメリーの「あらゆる差別がなくなること」、キャノンボール・アダレイの「人種差別が、この地球上のすべての場所から取り除かれることを願う」、ケニー・バレルの「人種的偏見がなくなること」、テリー・ポラード(ピアノ)の「人種、宗教、性別などによる差別のない世界」、ジミー・ヒース「もしもこの世界がもう一度最初からやり直せるとしたら、すべての人間が同じ色に作られて欲しいね」、クラーク・テリー「すべての人の意識に何かを起こしたい。いまいましい、最悪の、人種差別を根絶させるための何かを」、といった意見も切実だ。
レイ・チャールズのバック・バンドにいたサックス奏者、デイヴィッド・ニューマンは「ハイになること」と答えているけれど、これはあくまでも60年代初頭の話。その数年後、彼はドラッグのために一時活動を中断せざるを得ない状況になる。出所後にアンケートをとっていれば違う答えが出ただろう。クリーンになったニューマンは、2009年まで息の長いプレイを続けた。
「元気があれば何でもできる」と言ったのはアントニオ猪木だが、体が資本と考えるのはミュージシャンも同じだ。大御所コールマン・ホーキンスは「申しぶんのない健康」、デイヴ・バーンズ(トランペット)やG.T.ホーガン(ドラムス)も「健康」を望んでいる。ドナルド・バードは「健康、教養、長寿」、スタン・ゲッツは「正義、真実、美」、チャーリー・シェイヴァース(トランペット)は「若さ、健康、幸福」が3つの願い。アニタ・オデイは「死ぬまでアクティヴでいたい」と答え、ルイ・アームストロングは「100年生きること」を願った。ソニー・ペインは「健康、富、幸福」、つまりヘルス・ウェルス・ハピネスと韻を踏んでいるのだが、このあたりのリズム感のよさはさすがカウント・ベイシー楽団で鳴らした名ドラマーだけのことはある。ちなみにジョン・コルトレーンの願いのひとつは、「今の3倍の性的パワーを持つこと」。なにかと神聖視されることもあるコルトレーンだが、彼もやはりオスだった。正妻とは別に愛人もいたし、ベロンベロンの飲んだくれだった時期もあった。そうした過程を経たうえで、晩年の彼はあのような崇高な音響を創造したのである。
ベーシストのスパンキー・デブレストは「バードランドからオレのギャラを全額もらいたい」と答えている。伝説的名門ジャズ・クラブのダーク・サイドを垣間見たような気分になるのは僕だけか(今マンハッタン44丁目で営業している同名の店は、旧「バードランド」とまったく関係がないはず)。
バリー・ハリスは「あらゆるソウル、ファンク、そしてロックンロール・ジャズの終焉」を願いのひとつにあげている。「ワーク・ソング」が大ヒットしたキャノンボール・アダレイのグループで名をあげ、リー・モーガンの『ザ・サイドワインダー』にも参加している彼の“本音”がこの発言だとすれば、相当なアイロニーである。サックス奏者ロッキー・ボイドの「毎年、50週仕事があること」という発言も意味深だ。ジャズタイムというレーベルに残した唯一の吹き込みであると同時にリーダー作でもある『イーズ・イット』のおかげで、どうにか今も熱心なジャズファンの記憶に留められているボイドだが、いったい彼はいつまで活動を続けていたのだろうか? どのくらい仕事にありつけたのだろう?
この『ジャズ・ミュージシャン3つの願い』には、知るひとぞ知るプレイヤーの発言も紹介されている。近年、進境著しいドラマーにアリ・ジャクソンという気鋭がいるが、50年代から60年代にかけては同姓同名のベーシストが活動していた。たしかアルヴィン・ジャクソンと名乗ることもあったはずだ。ヴィブラフォン奏者、ミルト・ジャクソンの弟である。ほかにもHank Haynie、Johhny Baracuda、Sonny Nevious、Al Doctor、Cherokee Conyers、Hyler Jonesなど、少なくとも僕には聞き覚えのない面々も登場してくる。たぶん当時のニューヨークのジャズ界ではブイブイいわせていた連中なのだろう。Yasuhivo Koyamaとはいったい誰なのか。Yasuhikoの誤植だとしても、てんで想像がつかない。Jack ‘J.R.’ Montroseなる人物はジャック・モントローズのことか、それともJ.R.モンテローズのことか? 後者だとすれば本名はフランク・アンソニー・モンテローズ・ジュニアなので、フランキーやトニーと呼ばれたとしてもジャックと名乗ることは、まずない。前者だとすれば本拠地の西海岸から一時的にニューヨークにやってきたときを捉えての取材ということになるが、だとしてもジャック・モントローズの人脈とニカ夫人の人脈はあまりにも違いすぎる。George Brightはサックス奏者George Braithのことだろう。単にKhalilとある人物は、ドラム奏者だということなので、ひょっとしたらスリー・サウンズの2代目ドラマーであるKhalil Madiを示しているのかもしれない。
この本をさらに魅力的にしているのは、ニカ夫人が撮影したたくさんの未発表フォトである。「ファイヴ・スポット」の店内をカラー写真で知ることができるのも嬉しいし、ソニー・クラークやハンク・モブレーの見たことのない姿を見ることができるのも、彼らのポートレイトが絶対的に少ないだけに実にありがたい。そして猫ファンにもぜひ目を通してもらいたい。ニカ宅は別名“キャットハウス”と呼ばれるほど、たくさん猫がいたのである。猫になつかれるモンク、猫を抱っこするクラーク、トミー・フラナガンに寄り添う猫など、どれも印象的な写真ばかりだ。上半身裸のハチマキ姿でスネア・ドラムをチューニングするフィリーの姿もいいし、頭にバケツをかぶるモンクにも微笑が漏れる。なぜバケツを頭に?と疑問になる方もいらっしゃると思うが、それがモンクなのだからこれでいいのだ。


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 2010/03/25 原田和典のJAZZ徒然草 第55回

アラスノーアクシスは今年で結成10周年。ということは、あの3人組と同じだぜ
僕がニューヨークに着いた翌日、2月10日は大雪だった。
着いたときから異様な寒さだとは思っていたのだ。しかしこちとら観光客、限られた時間しかないし、しかも活きのいい音楽に飢えている。寒さも吹雪もなんのその、いい音が聴ければその感動で血圧をあげて寒気をふっ飛ばせばいいことだ。
しかしである、2月10日の朝は尋常ではなかった。カーテンをしめていても雪の寒さが目に飛び込んでまぶしいほどだった。むちゃくちゃ降り積もったのだ。テレビをつけるとブルームバーグ市長が「塩をまけ!」と言っていた。
とりあえず暖かいものを飲もうと近所のスターバックスに行ったら「緊急閉店」。僕の泊まっていたホテルのまわりは店じまいだらけで、ちょっとしたゴーストタウンである。
ひとまず宿に戻り、それでもライヴはやっているだろうと、地下鉄を乗り継いでグリニッチ・ヴィレッジに着いたのは午後8時半ごろだっただろうか。「コーネリア・ストリート・カフェ」(29 Cornelia Street)で、ペリー・ロビンソン(クラリネット)、バートン・グリーン(ピアノ)、エド・シュラー(ベース)の演奏が行われるはずなのだ。ライヴ・スペースは地下にあるのだが、いつもならそのあたりにある人の気配が、今回はない。1Fのレストラン・フロアのひとに訊ねたら、「キャンセルになった」とのこと。いやーまいったなあと思い、第2希望であった「スモールズ」(183 West 10th Street)に向かう。ジョー・マーティン(ベース)、クリス・ポッター(テナー・サックス)、ケヴィン・へイズ(ピアノ)、マーカス・ギルモア(ドラムス)のカルテットが出ているはずなのだ。つまりマーティンのリーダー作『Not by Chance』のピアノがブラッド・メルドーからケヴィンに替わったメンバーでのCDリリース記念公演というわけである。
ジョー・マーティン、クリス・ポッター

雪をかきわけ「スモールズ」近くまでたどりつくと、ドアがあいているのがわかった。営業している。改装前の「スモールズ」は、“10ドルで朝までジャズが聴ける”のが売りだった。10ドル払ってボロい椅子にすわり、床を這いつくばるゴキブリに注意を払いつつ、大きなバケツに入ったジュースを紙コップで汲んでテキトウに飲みながら、いいかげんに楽しむところに良さがあった。しかし今の「スモールズ」は各セット入れ替え制、20ドル+飲み物代+チップだ。ただ店内はとてもきれいになったと思う。僕は“猫席”の横に座ることにした。ここにいれば、時と場合によっては店で飼っている猫がとなりに来てくれるのだ。この日もクリス・ポッターのソロが盛り上がってきたころを見計らって猫が通路から登場、“猫席”の上で丸くなってしっぽでリズムをとっていた。
マーティンはリーダーではあるが、強烈な個性でバンドを引っ張るというタイプではないようだ。個人的には堅実なサポーターという印象が強いのだけれど、それはこの時も変わらず。ポッターの豊かな音量、多彩なソロ・フレーズ、鳴り響く音色にただただ酔いしれるばかりだった。ヘイズのピアノも、少なくともメルドーよりはこのバンドに合っていると思う。
その後、ナシート・ウェイツ(ドラムス)、ローガン・リチャードソン(アルト・サックス)、ジェイソン・モラン(ピアノ)の演奏を聴こうと「イリディアム」(1650 Broadway (51st. St.))に向かったが、due to blizzardということで公演中止。残念無念。
ジャック・ウィルキンス
翌日は見事に晴れた。夜は「キタノ・ホテル」(66 Park Ave at 38th Street)内のジャズ・ラウンジでジャック・ウィルキンスを、なんとノーチャージで聴いた。世界トップ・クラスの名ギタリストを至近距離で、飲食代だけで味わえるなんて、なんてラッキーだろう。にしてはこの店、エリック・アレキサンダーあたりにチャージ25ドルもとったりして基準がよくわからないが、とにかくウィルキンスの至芸を、彼の息遣いが伝わるような距離で聴けたことは幸運に尽きる。予定されていたメンバーはジョン・カウワード(ピアノ)、スティーヴ・ラスピーナ(ベース)、マーク・ファーバー(ドラムス)だったがジョンは海外に出ておりキャンセル、マークは悪天候のため来れず、ジェフ・ハーシュフィールド(ドラムス)が代役として参加した。
しかしこれが良かった。リハーサルの時間もなかったということで「ダーン・ザット・ドリーム」、「トゥー・フォー・ザ・ロード」等のスタンダード・ナンバー(だけど日本では殆ど省みられることがない)が中心だったが、その響きの美しいこと! ウィルキンスは単音、和音をおりまぜて、ときに甘くささやくように、ときにオーケストラのように雄大な響きを醸し出す。バーニー・ケッセルほどくどくなく、ジム・ホールほど沈み込まず、ケニー・バレルよりタッチが厚く、ジョー・パスほどペラペラ弾かない。「ウォーク・ドント・ラン」を、最初ベンチャーズ・スタイルで演奏し(「ベンチャーズがきっかけでギターを始めたようなものなんだ」とウィルキンスは語った)、次に作曲者であるジョニー・スミスを髣髴とさせるアルペジオ的コード・ワークを混ぜながらスインギーに盛りあげたのにも快哉を叫びたくなった。この日、僕は確かに最高のギター・トリオを味わった。
ジム・ブラック・アラスノーアクシス
次は「45ブリーカー」(45 Bleecker Street)という劇場で行われたジム・ブラックの“アラスノーアクシス”のライヴだ。彼らのCDはジャズ・コーナーにも置かれているが、基本的にジャズ・クラブに出るようなタイプのバンドではない。この日もオルタナティヴ・ロックを中心とするシリーズ“Search And Restore”の一環としての登場だった。開場と同時に地下のライヴ・スペースに下りていくと、すでにブラックとヒルマー・ジェンソン(ギター)やスクーリ・スヴェリッソン(ベース)がなにやらスペイシーな即興を始めている。
アラスノーアクシスのフライヤー
開演前のBGMも自分たちでやってしまおう、ということか。定員250名(だったかな?)の場内はたちまち満員になり、バンドスタンドと客席の間も体育すわりする人でギュウギュウだ。その他のスペースも人だらけだったから軽く300人以上は入っていたはずだ。中にはこの寒さ(むろん暖房など存在しない)だというのに、Tシャツ1枚でミニスカートの女性もいる。
オーディエンスが落ち着いたのを見計らって、クリス・スピード(テナー・サックス)が3人に合流する。前半は目下の新作『Houseplant』からの曲を怒涛のように並べる。アルバムではいろんな楽器を使って演奏されていたナンバーが、シンプルな楽器編成で、骨太に生まれ変わっていく。すごい盛り上がりだ。ブラックは1秒たりとも同じことをしない。スティックのあらゆる部位を使い、持ち方を使い分け(レギュラー・グリップとマッチド・グリップ)ながら、おそろしくコントロールされたプレイでバンドの音を操っていた。
ライヴは2時間ほど続き、ラスト・ナンバーが終わると観客は総立ち。ブラックは「今日は最高の気分だ。もう1曲やっていいかい?」と客席とメンバーに問いかけ、アンコール・ナンバーにもつれこんだ。ブラックのエキサイトぶりに、汗だくのメンバーが微笑んでいる。僕は海外のライヴでアンコールの場面に接したことがない。これは本当に異例のことなのだ。ジム・ブラック、そしてアラスノーアクシスをまた好きになってしまったではないか。このグループは2000年に始まったからPerfumeと同じく今年で結成10周年。一緒に組んでツアーしてくれたら、ものすごくクールじゃないかと思うのだが・・・。
トニー・マラビー、アイヴィン・オプスヴィーク
聴けば聴くほどいい、といえばトニー・マラビーだってそうだ。僕が滞在したときは「コーネリア・ストリート・カフェ」で彼を主役とした2日連続公演がおこなわれていた。両日とも “マラビー・チェロ・カルテット”と“ベン・ガーステイン&マラビー・カルテット”の順で登場予定だったが、ガーステインが不参加のため後者は3人編成となった。人気者マラビーゆえ、もちろん満杯。僕は開演30分前に「コーネリア」に行ったのだが、「予約してる? してないのか。じゃあ後ろのほうに並んで待ってて」といわれた。それでも後ろの席を取れたのはラッキーだったかもしれない。とにかくマラビーの人気はどんどんあがり、プレイのスケールはますます大きくなっている。この日は2バンドとも譜面を中心にした演奏だったが、マラビーがプレイすると紙の上の音符が立体化して目の前に迫ってくるようなリアリティが生まれる。やっぱりマラビーはすごい、これこそ今のジャズ・テナーだと思いながら帰り道、6番街に降り積もる雪をふみしめた私だった。
なかよし猫



★近況報告
いろいろプロジェクトが進んでいます。もうちょっとでお知らせできると思います。『ディスク・ガイド ジャズ・ピアノ』(シンコーミュージック・エンターテイメント)、おかげさまで快調です。こんなジャズ・ピアノ本は前代未聞だと思います。買っていただければ幸いです。『ディスク・ガイド ジャズ・サックス』(シンコーミュージック・エンターテイメント)も大好評発売中です。ぜひぜひ、お願いします! 『猫ジャケ』、『猫ジャケ2』(ミュージック・マガジン)、ともに大好評発売中です。『原田和典のJAZZ徒然草 地の巻』(プリズム)もディスクユニオン各店で絶賛発売中です。リマスター完備、新規原稿50%増し(当社比)なので、ウェブ上の「徒然草」とは別物と断言してよいでしょう。個人ブログ「ブログ人」(http://haradakazunori.blog.ocn.ne.jp/blog/)、私も混ぜてもらっているウェブサイトcom-post(http://www.com-post.jp/)もバリバリに展開中です。

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