黒澤明と早坂文雄の対話

AKIRA KUROSAWA 黒澤明

  • CD
  • 新品在庫あり
  • (翌日~翌々日に発送)

3,630円(税込)

※5,000円(税込)以上買うと送料無料!新品でも中古品でもOK!

レーベル
SALIDA
国(Country)
JPN
フォーマット
CD
規格番号
DESL-020
通販番号
1008765342
発売日
2023年12月20日
EAN
4571503310201
  • x
  • facebook
  • LINE

  • メール

商品詳細情報

黒澤明監督・45歳、作曲家 早坂文雄・40歳。
『酔いどれ天使』『羅生門』『生きる』『七人の侍』などで知られる伝説的コンビが『生きものの記録』脚本完成直後に語った、映画界、映画人、文化論、古美術などについての肉声録音を奇跡的に発見。
権利管理関係者への許諾確認に1年間を費やし、日本が誇る世界的監督が絶対的信頼を寄せた作曲家と語る歴史的対話を世界初CD化!

黒澤明監督作品『酔いどれ天使』『野良犬』『醜聞』『羅生門』『白痴』『生きる』『七人の侍』『生きものの記録』などの映画音楽や数々の純音楽作品を手がけたことで知られる作曲家 早坂文雄。

1955年2月、当時まだ珍しかったテープレコーダーを購入した早坂は、来客がある度に会話を録音し、後日それを聴いて楽しんでいました―――これらの録音は、図らずも早坂が同年10月15日に肺気腫(突発性肺気胸)で急逝したため、早坂の晩年を記録する極めて貴重な資料となります。

1970~80年代、音楽評論家 秋山邦晴は早坂の遺品確認・調査のため頻繁に早坂家を訪れ、この録音を含む資料の貸し出しを申し出ました。以来、録音テープは秋山宅で保管されることとなります。
秋山夫人であるピアニストの高橋アキさんは、僭越ながらSalidaの活動を以前より応援してくださっており、この御縁が録音テープの発見へと結実しました。
そして、残された録音テープには、早坂文雄とのつながりが極めて強く、世界的な知名度と影響力を有する重要人物との貴重な記録が残されていたのです。その人物とは―――

―――黒澤明。

1955年5月1日、新作『生きものの記録』の脚本を完成させた黒澤は、刷り上がったプリント台本を手に早坂宅を訪れます。そして、果たせるかな、発見されたテープにはその様子が録音されていたのです。
テープに収められた黒澤と早坂の対話は新作の打ち合わせにとどまらず、お互いの近況や当時の映画界・映画人の動向、映画論、文化論、そして共通の楽しみであった古美術についての話に至るまで多岐にわたり、現在我々が資料を読んで初めて認識するような歴史的事柄をリアルタイムの出来事として生々しく語り合っています。

まさに文化的示唆に富んだ貴重なドキュメントであり、間違いなく多くの方々に聴いていただくべき録音であることを確信したSalidaは、本録音のCD化を立案。
黒澤明監督の権利を管理されている黒澤プロダクションおよび株式会社K&K Bros.と作曲家 早坂文雄の御遺族・北浦(早坂)絃子さんからの制作許諾、 高橋アキさんからの制作協力をいただき、世界的監督 黒澤明が絶対的信頼を寄せた作曲家 早坂文雄と語る歴史的対話の世界初CD化を実現しました。

-----

【収録内容】※対話を収録したCDです

(1) 新作(『生きものの記録』)脚本完成 [3:51]
(2) 新作について [11:26]
(3) 新作タイトル検討 [2:09]
(4) 今度のシャシンは音楽がむずかしい [8:14]
(5) 『ミュージカル時代劇』構想 [5:59]
(6) 映画『楊貴妃』について [1:43]
(7) 映画『あすなろ物語』について [1:42]
(8) ベートーヴェン [2:37]
(9) 新作脚本執筆の回想 [4:02]
(10) 土屋嘉男 [2:24]
(11) 来月9日の演奏会 [1:26]
(12) 古美術談義I [2:10]
(13) 古美術談義II [2:05]
(14) 古美術談義III [7:02]
(15) 石について [3:34]
(16) 家について [1:56]
(17) 幸福なんて小さいもん [1:46]
(18) 多摩川の鮎釣り [1:38]
(19) 黒澤一家解散?! [2:23]
(20) 肺の治療・『楊貴妃』 [3:09]
(21) 溝さんは元気 [1:08]
(22) 永田雅一の失言 [0:56]
(23) “一緒にヴェニス行こう”って [2:11]
(24) 梅干し [1:54]

録音:1955年5月1日 早坂文雄邸

企画/制作/デザイン監修/解説書執筆:出口寛泰(Salida)
制作許諾:株式会社 黒澤プロダクション/株式会社 K&K Bros./北浦(早坂)絃子
制作協力:高橋アキ

-----

● 黒澤明(1910-1998)

1910年、東京府荏原郡大井町(現・東京都品川区東大井三丁目)に生まれる。

1936年、ピー・シー・エル映画製作所の助監督募集に応募。各試験を手堅くクリアし、口頭試問の面接を担当した山本嘉次郎がその絵画の知識・才能に注目したことから採用決定となり4月に入社する。

その実力は早くから周囲に認められ、『美しき鷹』(1937年 監督:山本嘉次郎)でチーフ助監督(製作主任)に抜擢。同じく山本組の大作『馬』(1941年)では監督を代行し別班で一部のシーンを撮影する「B班監督」をつとめ、演出・編集の手腕を振るった。

1943年、監督第一作『姿三四郎』公開。秀逸な演出力は高い評価を受け、その後も『一番美しく』(1944)、『續姿三四郎』(1945)、『虎の尾を踏む男達』(1945)、『わが青春に悔いなし』(1946)、『素晴らしき日曜日』(1947)、『静かなる決闘』(1949)等の秀作をつくり上げる。

1945年、『醉いどれ天使』ではじめて作曲家 早坂文雄と組み、それまでの因襲的な映画音楽を打ち破る大胆な試みを行うべく意気投合。公私に渡り親交を深め、以降、『野良犬』(1949) 、『醜聞』(1950)、 『羅生門』(1950)、『白痴』(1951)、『生きる』(1952)、『七人の侍』(1954)、『生きものの記録』(1955)の成果で伝説的コンビとして周知される。

1955年に早坂が急逝した後は、早坂の弟子である作曲家 佐藤勝と組み、『蜘蛛巣城』(1957)、『どん底』(1957)、『隠し砦の三悪人』(1958)、『悪い奴ほどよく眠る』(1960)、『用心棒』(1961)、『椿三十郎』(1962)、『天国と地獄』(1963)、『赤ひげ』(1965)の傑作群を世に送り出した。

1969年、木下惠介、市川崑、小林正樹らと「四騎の会」を結成し、『どですかでん』(1970)を発表。

還暦を過ぎた後も『デルス・ウザーラ』(1975)、『影武者』(1980)、『乱』(1985)、『夢』(1990)、『八月の狂詩曲』(1991)、『まあだだよ』(1993)の映画史に刻まれる大作・名作を精力的につくり続けた。

『羅生門』で第12回ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞と第24回アカデミー賞名誉賞(現・国際長編映画賞)、『隠し砦の三悪人』で第9回ベルリン国際映画祭監督賞、『影武者』で第33回カンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞。これら世界三大映画祭での受賞をはじめ、手がけた作品は国内外の映画賞を多数受賞。

1976年、文化功労者顕彰。1985年、文化勲章を受章。これをはじめ国内外から様々な賞・栄典・称号を授与される。

1998年9月6日歿。歿後、国民栄誉賞が贈られ、従三位に叙された。


● 早坂文雄(1914-1955)

1914年、宮城県仙台市に生まれる。
1918年、北海道札幌市に一家で移住。少年期より美術と音楽を愛し、旧制北海中学校在学時よりオルガンやピアノをはじめる。ほどなく独学で作曲の習作にも取り組む。

1934年、伊福部昭(後の作曲家)、三浦淳史(後の音楽評論家)と共に「新音楽連盟」を結成。「国際現代音楽祭1934」を主催し、自身のピアノによりエリック・サティ《三つのグノシエンヌ》などの日本初演を行う。
1935年、札幌「山鼻カトリック教会」に居住し、専属オルガニストとしての生活を送る。神学やグレゴリオ聖歌の研究をしながら、ラテン語、ギリシャ語、ドイツ語を独学する。

1936年、《二つの讃歌への前奏曲》が日本放送日本的祭典曲懸賞募集〈第2位入選〉。山田耕筰 指揮 日本放送交響楽団(当時、楽団名を「新交響楽団」としていた現在のNHK交響楽団が放送番組出演時に使用した名称)により放送初演される。

《古代の舞曲》(1937)がワインガルトナー賞〈優等賞〉受賞。
1939年、東宝映画社長 植村泰二の勧めに応じ、東宝音楽部に入社することを決意。同年、映画音楽第1作となる『リボンを結ぶ夫人』(監督:山本薩夫)を担当する。

《序曲 二調》(1939)が日本放送協会皇紀2600年奉祝管絃楽曲懸賞〈第1位入賞〉。

1946年、映画『民衆の敵』(監督:今井正)の音楽で第1回毎日映画コンクール音楽賞を受賞。以後、1947年『女優』(監督:衣笠貞之助)、1948年『酔いどれ天使』(監督:黒澤明)『虹を抱く処女』(監督:佐伯清)『富士山頂』(監督:佐伯清)、1949年『野良犬』(監督:黒澤明)の仕事で同賞を連続4回受賞する。

溝口健二監督作品『雨月物語』『山椒大夫』『近松物語』『楊貴妃』『新・平家物語』、黒澤明監督作品『醜聞』『羅生門』『白痴』『生きる』『七人の侍』『生きものの記録』などに代表される、それまでの映像附随音楽の水準を超える水際立った仕事は、日本における「映画音楽」の向上に深く寄与した。

映画音楽の仕事と並行して《左方の舞と右方の舞》(1942)、《ピアノ協奏曲》(1948)などのオーケストラ作品を発表。

新しい作曲運動のためのグループ「新作曲派協会」の発足に清瀬保二、松平頼則らと参画。1947年に開催された新作曲派協会第1回発表会でピアノ曲《詩曲》が初演される。以後、同発表会で数々の室内楽作品を発表する。

1955年10月15日、肺気腫(突発性肺気胸)により41歳の若さで急逝。

「自分自身が東洋的感性そのものになりきらなければ作品は書けない」とする、自身が唱えた「汎東洋主義(パンエイシャニズム)」探究の過渡的傑作《交響的組曲「ユーカラ」》(1955)が純音楽作品の遺作となった。