2026.02.26 ジャズ 特集・お知らせ

昭和100年記念特別企画 diskunion presents レコードでたどる日本とジャズ 第4回

昭和のバンドマンの息子として生まれ育ち、そのルーツである日本のジャズについて探求を続ける音楽ライター原田和典が綴る「レコードでたどる日本とジャズ」 第4回



 文藝春秋の単行本「昭和天皇独白録 寺崎英成御用掛日記」のページをめくっていると、なんというか、言葉にできない感情がこんなにも多く湧き上がってくるものなのかと自分でもびっくりする。読んでください。1919年パリ平和会議の「有色人種の立場から日本が提出した人種差別撤廃案」に対するアメリカ・イギリス・ポーランド・ルーマニア・ブラジルからの否決、その5年後にアメリカが打ち出した「1924年移民法」、これらが「日本人の反米感情が決定的となった」要因であったと書かれている。ずいぶんデカい主語だなあと思うが、こうした歴史もありながらの、昭和ひとケタのジャズ・ソング・ブーム、亜米利加モダニズムへの憧れだった、ということか。


 昭和12年(1937)2月には“三千弗のジャズ王”ベニー・グッドマンがNHKの前身といっていいであろうJOAK放送局の「日米国際音楽放送」プログラムに登場。大正15年(1925)から昭和11年まで我が国に住んでいたジャーナリスト/タレントのバートン・クレーンがニューヨークのCBSスタジオに赴いて、日本語による司会進行を務めた。この模様は、わずか2曲ではあるがグッドマンのアルバム『ハロー・ジャパン1937』で聴くことができる。彼が自身のバンドに加え、デューク・エリントン楽団やカウント・ベイシー楽団のメンバーを交えて、“ジャズ20年史の回顧”を含む歴史的なカーネギー・ホール・コンサートを開催するのは、この11か月後、38年1月のことである。また、昭和14年のニューヨーク万国博覧会には漫談家の大辻司郎が訪問、その模様はカラーの記録映画として残されている。この万博に出た少年ジャズ・バンドではデューク・ジョーダンがピアノを弾いていたはずだ。後追い世代の自分が見る限り、日本とアメリカはいい関係にしか思えない。が、昭和16年12月8日、日本時間の午前6時に「帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」との大本営発表があり、昭和18年1月18日には情報局と内務省が米英音楽の一掃を決定した。憲兵が家に踏み込んでジャズ・レコードを持ち去った、というようなエピソードを読んだことのあるひともいらっしゃることだろう。


 では、この時期の日本では完全にジャズの心臓が止まっていたのか、というと、そう言い切れるものでもない。ひとつは日本の民謡を器楽で演奏しよう、という企画で、代表的なものにキングレコード(富士音盤)から出たキング軽音楽団のものがある。アレンジは佐野鋤、「草津節」あたりはサックスやブラスのアンサンブルも冴えるスウィング調だ。もうひとつは連合国側向けプロパガンダ放送である。英語民族に呼びかけるのであるから英語のアナウンスは必須であり、さらに音楽をつけるのであればそこはやはり尺八や三味線ではなく“抜き差し曲がり金真鍮喇叭”や“金属性先曲がり音響出し機”が活躍するジャズこそ納得のいく選択だ。だからジャズを演奏する人材はある程度、国のために必要だった。敵国に向けてジャズを国策として演奏するという行為、それも戦時のねじれのひとつなのだろう。


 昭和20年(1945)8月15日に敗戦、9月2日から連合軍の占領が始まり、ここに日本で再びジャズ(軽音楽)が表通りで演唱・鑑賞されるようになった。この連合軍の初陣のなかに猛烈なジャズ好きがいて、ディジー・ガレスピーのギルド・ミュージックラフト盤などを持ってきてガンガン焼け野原に紹介していたら我が国のジャズ界に革命が起きていたかもしれないが、連合軍の目的が「日本に再びジャズを広めること」や「ビバップという新しいジャズを知らせる」ことであるわけなどないし、まあ、それどころではなかったのだ。「漢字+カタカナ+ひらがなで文章を表記し、しかも文字は右から左に進む横書きor縦書き、(全員ではないにしても)黒い髪や一重まぶた、イカやタコや焼きのりを喰う、小柄で細身の」日本人は別の惑星の生き物のように感じられたかもしれず、英語以外の言語がこの世にあるのか、と驚いた兵士もいたかもしれない。


 戦後の日本のジャズに、おそらくいちばん最初に登場する一等星は日系人のジミー荒木だ。1946年陸軍少尉として来日、我が国のジャズ・ミュージシャンとも積極的に交流した。1926年生まれのハリウッド育ちだそうだから、強制収容所に入れられる時期があったとはいえ、スタン・ケントン楽団やウディ・ハーマン楽団などのジャズに接していた可能性は十分にある。ジミー荒木が作曲し、ビクター・ホット・クラブなるグループ名義で昭和22年5月に発売された「A.P.O.500」は戦後のジャズ・レコード(インストゥルメンタル)の第1号とされる。


 レコーディングに際して、日本ビクターは日本コロムビアのスタジオを借りた。自社スタジオが戦災に遭ったからだ。焼け野原を舞台として、かつてのライバル会社どうし、互いに手を取り合ってレコード産業を盛り上げていこうという感じか。では、なぜビクターだったのか。私は次の4つを考える。1)コロムビアにジャズに精通したディレクターがいなかった。2)コ社の国内制作は並木路子や霧島昇や二葉あき子など日本語の流行歌だけで業績が順調だったので、わざわざ日本人のジャズを制作する必要がなかった。3)ビクターは海外のジャズを出したくても、原盤調達に手間取った。ゆえに自社でジャズを制作せざるを得なかった。4)ビ社には河野隆次というディレクターがいた。


 この河野隆次こそ、戦後最初の名ジャズ・ディレクターであると私は考える。もちろん従軍経験はあるのだが、その間も中佐にジャズの素晴らしさを訴え、殴られるどころか「河野がそんなに夢中になるのであれば俺もジャズを聴いてみようか」と言わせたとの逸話もあるほどのジャズ・クレイジーなのだ。


 「A.P.O.500」のメンバーは南里文雄、森亨、多忠修、松井八郎、松田孝義、田中和男という、一流どころだ。そして音作りはあきらかに新味を狙っている。ビバップが目線の先にある。だが、ディジー・ガレスピーやチャーリー・パーカーの“アングラな”それではなく、ウディ・ハーマンのファースト・ハードとかウッドチョッパーズあたりを思い起こしていただけると距離感が近いのではないかと思う。どこかの本で読んだが南里は「ビバップは肉食人種の音楽。ひもじい私らには吹けませんわ」と言ったとか。南里といえはディキシー~ニューオリンズ系の第一人者だが、この路線からコンテンポラリーなところまで吹きこなせるトランペット奏者に関してはここから50数年後、シオ・クローカーの到来を待つことになる。


 ジミー荒木はまた、卓越したサックス奏者であった。帰国後の1950年代半ばにはライオネル・ハンプトンのオーケストラに在籍し(同僚にはカウント・ベイシー楽団に入るボビー・プレイター、デューク・エリントン楽団に入るルーファス・ジョーンズらがいた)、再び来日した昭和34年には『ミッドナイト・ジャズ・セッション』という大傑作を残していて、アルト・サックスの多重録音がとにかくすごい。バリトンやテナーを含むならともかく、音域高めの、同じ音域をもつ楽器を重ね合わせて、よくここまでニュアンスに富んだアンサンブルを出せたものだ。やはり荒木が弾くピアノの演奏も卓越しているし、ドラムはジョージ川口なのだが、決してドカドカいかず、突っ走らず、謙虚に仕事をしていて、私は彼が「テイスト」を持つ奏者であったことをこれで知った。


 話を戻すと昭和22年6月には雑誌「スヰングジャーナル」が隔月刊としてスタートしている(のちに月刊化、さらに「スイングジャーナル」と表記を改める)。創刊号の表紙はビング・クロスビー、キャッチフレーズは「ダンスとスヰング・ミュージックの雑誌」。この創刊号、確かスイングジャーナルの50周年記念号が出たときに縮小版が雑誌に封入されたはずだ。私もそこで初めて読んだひとりだが、「で、ジャズはどこ?」という感じになったことを覚えている。いや、当時の日本にとってのジャズの最大公約数がこれだったのか。


 レコードは高価だし、ジャズ・ライヴの現場のひとつであった連合軍関連の施設に一般の日本人が入ることはできない。もっと手ごろにジャズに接することができないものか、という考えもあったのだろう、「スヰングジャーナル」は49年7月、「第1回スヰングコンサート」を主催する。私が調べることのできたのは第3回(昭和24年10月24日、讀賣ホール)の出演ラインナップで、渡辺弘(スターダスターズのリーダーではなくアコーディオン奏者の通称“アコナベ”)とリクイド・トーン・メーカーズ、多忠修とゲイ・スターズ、ビバップを志向するCBエイト、グラマシー・シックスが出たようだ。CBとグラマシーは「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」と「オー・レディ・ビー・グッド」を合同演奏したとのこと、海の向こうでの、ノーマン・グランツ率いるJATP(ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック)のジャム・セッションからの影響もありそうだ。


 昭和27年以前のジャズは本当に録音がわずかしかない。が、それからほぼ四半世紀後、昭和40年代の終わりに「今からでも遅くはない。やろう」と立ち上がった人物がいた。日本コロムビアで歌謡曲を担当していた日暮玲司というディレクターだ。「ジャンルが違う」ということでコロムビアからはOKが出なかったそうだが、牧芳雄、いソノてルヲ(二人とも評論家だが学生ジャズバンドに在籍経験がある)、村田威次(かつてグラマシーやブルーコーツで演奏)らの協力を経て、LP3枚組に相当する音源が新録された。登場バンドはレイモンド・コンデとゲイ・セプテット、グラマシー・シックス、CBナイン、与田輝雄とシックス・レモンズ、渡辺晋とシックス・ジョーズ、ジョージ川口とビッグ・フォー、鈴木章治とリズム・エース、河辺公一とヒット・キット・オーケストラ(このレコーディングのために特別に結成)、北村英治とキャッツ・ハード、森寿男とブルー・コーツ、原信夫とシャープス&フラッツ、薗田憲一とディキシー・キングス、ソリストとして南里文雄、森亨、世良譲、歌い手として石井好子、笈田敏夫など。録音は昭和48年に始まったので前年に他界した白木秀雄の姿はなく、ナンシー梅木、秋吉敏子、駆け出しの頃の松本英彦が憧れたという厚母雄次郎の欠席は残念だとしても、当時現役で、スケジュールの合ったミュージシャンは相当な割合で参加している。むろんコンサートではなくスタジオ録音だし、日々を生きるジャズ・ミュージシャンに「戦後まもなくのようにやってくれ」というのが無茶な話であることなど、誰もがわかっていたはず。が、日本ジャズに深入りしたい人なら持って損はない資料ではある。しかもCBエイト~CBナインには1曲たりとも往年の録音がないのだ。


 上記のセッションは制作から約3年を経た昭和51年9月、『燃えるジャズ』というタイトルでディスコメイトという会社から発売された。歌謡曲では八神純子や因幡晃がヒットを担い、ジャズ関連ではマーク・ターナーが学生の頃に聴いて大感激したというウォーン・マーシュとルー・タバキンの『テナー・グラッドネス』(マークが手にしたのは米インナー・シティ盤だったが、もともとは日本制作であることを知り、以来、一気に我が国に親しみが増したとのこと)、一時期中村照夫の夫人であったサンドラ・ヒューイットの『サンドラ』、ビッグバンドを組んでいた当時の秋吉敏子が次々と残したコンボものなどを擁する会社だ(昭和59年事業解散)。CDは日本ウエストミンスターから2枚組『あの頃のジャズ』として出ている。


 昭和27年4月28日にサンフランシスコ平和条約が発効、ここに“オキュパイド・ジャパン”の季節は終わりを告げた。この年にはまた、江利チエミ、雪村いづみが相次いでデビューしている。トニー谷の司会や歌唱も含めて、“日本語と英語がチャンポンのアメリカン・ソング”の黄金時代であろう。そして「猫も杓子もジャズに熱狂」し、ショウの開演を待つ人々が日劇のまわりを何重にも囲んだという、昭和28年の狂騒へと移りゆく。

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