<連載>原田和典のJAZZ徒然草 第120回

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2022.01.19

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世界の心を揺さぶる北国発のピアニズム。『ベスト・オブ・福居良』発売記念! 札幌市「jazz live SLOWBOAT」の福居康子さんに、“北海道ジャズのゴッドファーザー”福居良さんについてたっぷり話をうかがったぜ

英国のDJジャイルス・ピーターソン氏や「Deep Jazz Reality」の尾川雄介氏の尽力もあって、福居良への再評価は留まるところを知らない。ぼくは北海道出身なので、札幌のテレビ番組に登場してゴキゲンなジャズ・ピアノを演奏する福居良を子供の頃から見たり聴いたりしていた。すごく身近な地元の名手、北海道弁で話しかけたらニッコリと北海道弁で返してくれるような印象である。
が、そのプレイ、楽想はワールドワイドであるどころか、時代をも超えていた。没後6年、コンピレーション・アルバム『ベスト・オブ・福居良』の発売を機に、福居良夫人であり、ジャズ・クラブ「jazz live SLOWBOAT」(札幌市中央区南3条西3丁目 もりにビル4F)、およびレーベル「SLOWBOAT」を運営なさっている福居康子さんにお話をうかがった。

<ジャズ・クラブ「jazz live SLOWBOAT」>


<『ベスト・オブ・福居良』(2022年1月19日発売)>


---- 福居良さんは1948年に北海道の日高地方の西端、平取町(びらとりちょう)で生まれました。札幌から自動車で約2時間の距離ですね。

「平取に生まれて、小学校5年の時に札幌に出てきたそうです。旅一座で育ちました」

---- お父さんは津軽三味線の名手である福居天童さん。天童さんの歩みについて、ぼくは北海道出身のノンフィクション作家、川嶋康男さんが書いた『漫芸―福居天童の世界』で学びました。旅一座、旅芸人というと、川端康成「伊豆の踊子」の世界を思い出します。

「3歳まで、その一座に入って旅してたらしいです。ベスト福居という名前で、ちっちゃい子が歌うものだからすごい人気で、お花をいっぱいもらっていたそうです。当時の一座には、白川軍八郎さんのような超一流の方もいらっしゃいました」

---- 天童さんと同じく盲目であり、三橋美智也さんの師匠であった方ですね。

「子供の頃の良さんは、そうした方の素晴らしい芸を、袖でじっと聞いていたらしい。で、あんまり大したことない芸の人のときには、聞きにいかずに他に遊びに行っちゃう。そんな子だったんですって。平取の小学校に行って、それからお父さんたちが旅の仕事をやめて、札幌に定住したのは小学5年生の時だったそうです。中島公園のところに、ヘルスセンターがあったんですよ。その仕事が来て、家族が集まって札幌で暮らせるようになったそうです」

---- ぼくも幼少の頃、昭和40年代後半には中島公園のそばに住んでいたのですが、あのあたりにヘルスセンターがあったとは。福居良さんが、いわゆる洋楽に親しむようになったのはその後でしょうか?

「高校に入った頃にベンチャーズ等のエレキ・バンドの人気が出てきて、それに触発されて良さんがギターで弟の良則さんがドラムで、アマチュアで演奏していたそうです。その後、高校2年の時に、ヘルスセンターで演奏していたお父さんのバンドのメンバーが急にやめることになったので、お母さんが“高校を辞めて(バンドを)手伝ってくれないか?”と良さんに相談したところ、“いいよ”って言って学校を辞めちゃったらしい。お父さんにはすごい怒られたそうですけど。その時にアコーディオンに初めて触ったらしいんです。当時、アコーディオンは人気楽器だったでしょう?」

---- 横森良造さん、林家三平(先代)師匠と組んでいた小倉義雄さん・・・

「2ヶ月位、こもって練習したと言ってました。けっこう弾けるようにはなったんだけど、まだまだダメだということで、上京して、アコーディオンの先生について。それから東京の民謡酒場みたいなところで伴奏するようになったんですよ。お客さんの歌を伴奏して、お座敷でも演奏して」

---- 村田英雄さんの曲とか春日八郎さんの曲とか、それぞれのお客さん・・・酔客も多かったと思います・・・が歌いたい曲をすぐ伴奏で合わせなきゃいけない。

「大変だったそうです。弾けなかったりしたら、もう怒られますから。すごくイヤな思いもいっぱいしたらしいですよ。こうしたことが積み重なって、演歌とか、そういうのが苦手になったところがあるようです。札幌で有名なタンゴ・バンドに入って、ビアガーデンで演奏したこともあります。当時、ものすごく弾けたらしくて、けっこう天狗になっていたところもあったそうです。ある歌手と衝突して、“それなら辞める”と言って、これからどうしようかと思っていた時に、ドラマーの弟(福居良則氏)が「クラブ・ハイツ」というところのビッグ・バンドに入った。その影響でジャズに深入りしていくんです」

---- 22歳からジャズ・ピアノを始めた良さんは、どういったジャズを聴いて、どんなミュージシャンに夢中だったのでしょうか?

「いろんな人を追って、その時々でその人に集中する時期があるんですね。マッコイ・タイナーもすごく好きだったし、本田竹広さんがスタンダード・ナンバーを演奏した『ジス・イズ・ホンダ』も本当によく聴いていました。本田さんのライブに行って“すごいなあ”と言っていたことも覚えています」

---- ジャズ・ピアノを始めて間もなく東京に行き、いきなり大御所サックス奏者である松本英彦さんのバンドに抜擢されたのもすごいと思います。

「東京に行って、松本さんのバンドに入ることができました。良さんは“まだ全然弾けない頃だったのに”と振り返っていましたが」

---- 菅野邦彦さんをはじめ、錚々たるピアニストが在籍したバンドですからね。

「“ユーは、前任のピアニストよりも弾けてない”と言われて、もうだめだと思うほど挫折して、ジャズをあきらめて札幌に戻ろうと考えて、安アパートの部屋でずっと泣いていたそうです。少し気分が落ち着いたのでラジオをつけたら、エラ・フィッツジェラルドの歌う「Cジャム・ブルース」が流れてきて、曲の中に、エラが笑うところがあるらしいんですね。それを聴いたときに、“やっぱりジャズは良いな、もう一回がんばってみよう”と思ったそうです」

---- 1975年に帰札なさった福居良さんは、同年に自身のトリオを結成し、76年3月からは伝法諭さん(ベース)、福居良則さん(ドラムス)との顔ぶれに安定します。ファースト・アルバム『シーナリィ』が録音されたのは、この年の9月のことです。


「トリオ・レコードの営業だった伊藤(正孝)さんが「びーどろ」(札幌市中央区南3条西5丁目にあった)によくライブを聴きに来ていらしたんです。当時、トリオ・レコードはそのくらい大きな、札幌にも支店がある会社でした」

---- トリオ・レコードの慧眼というか、見識の高さはもっともっと注目されるべきだと思っています。ジャズに関してはいうまでもなく、日本語の歌でも左とん平荒木一郎かまやつひろし憂歌団などの傑作が出ていますし、81年に大ヒットした竜鉄也の「奥飛騨慕情」もトリオ・レコードからの発売でした。そして、伊藤さんは「びーどろ」で福居良トリオに感銘を受けた・・・

「福居良トリオをぜひレコーディングしたいとトリオ・レコードの東京本社に伝えたらしいんですが、予算が厳しいと。それに良さんも“急に、いま録音しよう”と言われても自信がない。22歳からジャズを始めて、軌道に乗るようになったのは25歳ぐらいですからね。そこからまだ3年ほどしか経ってないし、レコードに残せるようなものではないということで何度か断ったみたいですが、やっぱりライブだけでは生活が大変ですし、共演メンバーの経済的な事情もあって、ある日“ギャラは出るんですか?”と尋ねたところ、“出ます”と。“じゃあ、(レコーディングを)やろうかな”という感じでした。東京に行って録音するのは費用的に無理だったので、札幌で録音して(札幌ヤマハホールにて無観客収録)。だいぶあとになって、伊藤さんが自分のボーナスからギャラを支払ってくれたことを知りました」

---- 粋ですね。伊藤さんの福居良トリオへの並外れた愛情が伝わってきますし、だから、トリオ・レコード自体のロゴではなく、外部原盤制作であることを示す“ナジャ”のそれがジャケットに入っていたわけですね。このアルバムは、いまやヨーロッパを始め、あらゆるジャズ・ファンから注目されているといっても過言ではありません。YouTubeへのアクセスも1500万回を超えているそうですが、その大きな魅力のひとつが、冒頭に入っている「アーリー・サマー」だと思うんです。作曲はピアニストの市川秀男さんで、74年3月のライブ録音『ライヴ・イン・5デイズ・イン・ジャズ ソロ&トリオ』、およびベーシストの福井五十雄さんが76年10月に録音したリーダー作『サンライズ・サンセット』で自作しています(ともにスリー・ブラインド・マイス盤)。でも、福居さんの演奏は一聴、“これが同じ曲なの?”といいたくなるほど独自の味があります。

「そうみたいですね。良さんは市川秀男さんをとても尊敬していました。東京に住んでいた頃は家も近所で、市川さんのお宅にしょっちゅう出入りしていたそうです。そして市川さんが演奏している場所には必ず足を運んで聴いて、スタジオの仕事にもついていったり。「アーリー・サマー」に関しては、市川さんに“録音してもいいですか”と直接尋ねたという話を良さんからきいたことがあります」

<『シーナリィ』>


---- 『シーナリィ』は77年上旬に発売されましたが、その頃、ぼくは旭川の小学校に通っていて、たまに札幌に来ていました。当時のジャズ喫茶は入り口近くの壁に、新譜レコードの帯を張り付けているところが多くて、たしか渡辺貞夫さんの北海道厚生年金会館のコンサートの帰りだったと思いますが、貞夫さんの『アイム・オールド・ファッション』や秋吉敏子=ルー・タバキン・ビッグバンドの『インサイツ』の帯と並んで『シーナリィ』の帯や・・・トリオ・レコードの帯は太いので目立つんですよ・・・J.J.ジョンソン&ナット・アダレイ・クインテットの来日公演の告知チラシが飾られていたことを記憶しています。

「『シーナリィ』はおかげさまで好評で、札幌のジャズ喫茶のどこに行ってもかかっている感じで、だんだん広まっていきました。伊藤さんはやっぱり営業の方なので、作ったからには絶対広めたいということで、本当に力を入れてくださいました。トリオ・レコード本社としては“まさか地方の人たちのジャズがそんな売れるはずないだろう”と思ったかもしれないですけどね。『シーナリィ』の後も伊藤さんはよくライブを聴きにいらしたんですが、おっしゃっていたのは“福居良トリオの進化の度合いはすごい。さらに良くなっている。また録音しなければ”ということでした。そこで「びーどろ」のライブをプロ用の機材で収録して東京のトリオ・レコードに送ったところ、予算がおりて、セカンド・アルバムの『メロー・ドリーム』を録音することになりました(今度はトリオ・レコード本体から発売、77年12月新譜)。」

---- トリオ・レコードに送るために、その「びーどろ」で収録された音源が、2021年にウルトラ・ヴァイヴからリリースされた『ライブ・アット・びーどろ'77』ですね。

「当初「びーどろ」のピアノはアップライトだったんですけど、だんだんお店が賑わってきて、グランド・ピアノに切り替えました。その時期のステージを収録したのがこのアルバムです」

---- まさか伝法さん、良則さんとのトリオによるライブ演奏が商品化されるとは思ってもみませんでした。今、おふたりは・・・・?

「伝法さんは亡くなって15年ぐらい経つと思います。演奏活動のほか、後輩の指導もなさっていました。良則さんが亡くなったのは良さんの前の年です。亡くなるしばらく前から、難病を患っていました」

---- もうみんな亡くなってしまったとは、残念です。海外のファンの方もショックでしょう。

「駆け抜けたんでしょうね。本当にお互いの音を聴きあって刺激を与えながら、演奏していたんですよ。3人の年齢も近かったし、良さんがリーダーで、ほかのふたりがサイドメンでという意識もあんまりなかったように思います。良則さんは良さんよりも先にジャズを演奏していましたし、良さんは良さんで良則さんに負けたくないみたいな・・・・負けん気の強い兄弟に挟まれて伝法さんも大変だったと思いますけど、その場その場でバランスを取ってくれた大切な方でした。ライブが終わって、飲んだり焼き鳥を食べていると、必ず音楽のことで言い合いになって、ケンカになる。それで“もう解散だ!”となって、次の仕事でまた3人揃って演奏して、また言い合いになって。あのトリオは、いったい何回解散したかわかりません(笑)」

---- そのくらい血気盛んで、妥協を許さなかった。

「そうですね」

<『ライブ・アット・びーどろ'77』>


<『メロー・ドリーム』>


---- ところでトリオ・レコードから作品を出していた1970年代後半はクロスオーバーやフュージョンと言われる音楽が脚光を浴びて、エレクトリック・ピアノやシンセサイザーが花形だったところもありましたが、そのあたりを福居良さんはどう捉えていたのでしょうか?

「あえて距離を置いていたわけではないとは思うんです。音楽性のすごく広い方でしたから、ロックもブルースも好きだし、ここ(「jazz live SLOWBOAT」)にハモンドB3(オルガン)を運び込んで演奏したこともあります。ただ、いわゆるフュージョンには、あんまり興味がなかったんじゃないでしょうか。新しいものにどんどんいっちゃうような性格ではなかったと思うし、自分がやりたいと思うことをじっくりやっていた感じですね」

---- 福居良さんは数々の印象的なオリジナル曲を残していますが、作曲に関してはどう取り組んでおられたのでしょう? 次から次へと美しいメロディが浮かぶ感じだったのでしょうか。

「曲作りに関しては、誰かに“書いてくださいよ”と言われて、やっと書き始めるタイプでした。日頃からオリジナル曲を書きためておくことはありませんでした」

---- ソロ・ピアノ・アルバム『マイ・フェイヴァリット・チューン』(94年)に入っている「Nord」は、HBCテレビ(北海道放送)の番組「Nord 北へ〜ソウルの響き」のテーマ曲として書かれたナンバーです。


「テレビ局から依頼が来たので、重い腰をあげて作曲した感じですね。もちろん大切に書いて、演奏しましたが。サロベツ原野の海の近くの草原で良さんがピアノを弾いた時、海の向こうに利尻島の利尻富士が美しい姿を見せてくれていました。晴れることの少ないサロベツ原野では、利尻富士がきれいに見えることは少ないそうです」

---- 歌詞をつけて歌いたくなるような美麗なメロディです。先に触れた「音楽人図鑑」では良さんがちょっと歌うシーンもあって、すごくいい声なんですが、たとえばステージで弾き語りをしたりすることはあったのでしょうか?

「まったくありませんでしたね。ジャズを歌うことに関しては“英語がよくわかんないから”って。でもカラオケは好きでしたよ。「俵星玄蕃」や「スーダラ節」を歌っていたのを思い出します」

---- 三波春夫さんや植木等さんの楽曲も福居良さんの中にあったと知って、さらに身近に感じられてきます。ここで話を80年代後半に戻したいのですが、バイオグラフィに「38歳のときに札幌を拠点に自己の音楽を追求しようと(東京から)帰札」とありますね。

「ライブの聴けるレストランをやりたいという友人が札幌から東京に来て、“そこで演奏できるのは良さんしかいない”と説得したそうなんです。それで札幌に戻りました。いいお店だったんですが、やっぱりまだ早すぎたというか、ライブを聴きながら食事するお客さんが札幌ではまだ少なかったみたいです。10か月ほどしたら危うくなってきて、そうすると必ず最初に音楽面の予算が削られていく。もういちど東京に出るしかないのかなと思っている時、別のお店からレギュラーの仕事が入ってきました。エレキ・ベース奏者にウッド・ベースを覚えてもらって、それこそ(共演者にジャズを)教えながら、活動を続けていきましたね」

<『マイ・フェイヴァリット・チューン』>


---- (あたりを見回して) このポスターについてもうかがってよろしいでしょうか? 89年4月に、パリのジャズ・クラブ「Le Petit Opportun」で1週間公演を行なったときのものですね。ドラムスがシャルル・べロンツィ、ベースがビビ(ジルベール)・ロベール。このふたりは60年代のマーシャル・ソラール・トリオのリズム・セクションであり、フレンチ・モダン・ジャズの超重鎮です。

「良さんと東京で知り合ったカメラマンの朝隈兼治さんがコーディネイトしてくださいました。良さんは飛行機が嫌いだし、札幌からは距離が遠すぎるので最初は断ったんですが、その次の年に、またお誘いを受けて。まさにフランス映画に出てくるような感じのお店で、入ってすぐカウンターがあって、ライブ・スペースは下。昔ワインセラーだったのかなというような作りでした。共演者についてはクラブのオーナーが選んでくれたはずですが、言葉を超えてジャズでわかりあえる感じの素晴らしいミュージシャンたちでした。ピアノはアップライトでしたね。良さんはアコーディオンも弾いて、すごく楽しい1週間でした」

<1989年、パリのジャズ・クラブ「Le Petit Opportun」出演時のポスター>


---- そして90年代初頭、福居良さんは、生涯の師と慕うようになるバリー・ハリスとの交流を始めています。最初に原宿「キーストーン・コーナー」、その後「富士通コンコード・ジャズ・フェスティバル」で生演奏を聴いたとのことですが、ぼくもその両方に足を運んでいるので、福居さんと同じ空間で彼の演奏を聴いていた可能性があります。良さんは、レコード等では、バリーさんの演奏をそれ以前から聴いていましたよね?

「名古屋で一年ちょっと活動して、その後東京に行っていた時に(80年代前半)ベースの小杉敏さんと親しくなって、カセットテープを聴かせてもらったら、その中にバリー・ハリスの演奏が入っていて、すごく感激したそうです。以前からスタンダードな良いものを自分なりに演奏していましたが、バリーさんとの出会いによって、骨組みというか、根拠というか、いっそう筋が通ったところはあると思います」

---- 良さんと康子さんは95年に「jazz live SLOWBOAT」を開店し、バリーさんもここで演奏なさいました。

「サッポロ・シティ・ジャズに出演したこともあります。で、そのときにはジョー・ザヴィヌルも“ザヴィヌル・シンジケート”で登場しました。ふたりはバリーさんの楽屋で旧交を暖めていましたね」

---- それは嬉しいエピソードですね。バリー・ハリスとジョー・ザヴィヌルはキャノンボール・アダレイのバンドで先輩・後輩ですから。ザヴィヌルさんはバリーさんをすごく尊敬しているでしょう。

「そうなんですよ。だけど人気や知名度ということでは、どうしてもザヴィヌルがメインのアーティストとして、トリをとることになってしまう。格からいえばバリーさんが絶対上ですけど、そんなことを私たちが言ってもしょうがないし」

---- 99年には、バリーさんとゆかりの深いライル・アトキンソン(ベース)、リロイ・ウイリアムズ(ドラムス)とアルバム『リョウ・フクイ・イン・ニューヨーク』をレコーディングしていますね。

「その前にお二人には札幌に来ていただいたんです。ここ(「jazz live SLOWBOAT」)にも出演しましたし、高校の芸術鑑賞プログラムで演奏したことも忘れられません。芸術鑑賞を担当した先生が良さんのファンで、“ぜひ高校生にナマのジャズを聴かせたい”と任せてくださいました。“高校生は誰もジャズを聞いたこともないかもしれない。そういう子たちに絶対に本物を届けたい”と良さんは考えて、最高のリズムが欲しいと思ってリロイさんのことを考えた。メールなどない時代だしたから、手紙をエアメールで送って。そうしたらOKが出まして、手続きは本当に大変でしたけど、リロイさんが“ベースはライルさんがいいだろう”と提案してくださって。全校生徒を集めて、札幌市民会館で演奏しました」

---- 生徒たちにとって、忘れられない体験になったのではないかと思います。国籍の異なるミュージシャンが一丸となって演奏して、しかも歌が入っていない。こんな世界があるの?という感じだったかもしれません。

「私語もなく、しっかり聴いてくれましたし、感想文を学校から送っていただいたんですが、“素晴らしかった”“感動した”と書いてあって、読んでいてすごく嬉しかったですね。アメリカからリロイさんとライルさんに来ていただいて、本当に良かった」

---- そうした積み重ねが、『リョウ・フクイ・イン・ニューヨーク』に結実したのですね。


「気持ちが通じ合っている共演者とのレコーディングとはいっても、良さんは飛行機が嫌いなので、最後まで躊躇していましたね。スタジオは山小屋みたいな木造のつくりで、良さんの希望でヘッドフォンをしないで録音するという形でレコーディングしました。スタジオ内に仕切りができて、ヘッドフォンして、ちょっと間違ったら音を入れ替えたり、いじったり、そういうのはしたくなかったんですよ」

<『リョウ・フクイ・イン・ニューヨーク』>


---- 2012年にはジャズ・ピアニストとして初めて札幌文化奨励賞を受賞し、2015年には粟谷巧さん(ベース)、竹村一哲さん(ドラムス)とのトリオで『ア・レター・フロム・スローボート』を収録しています。粟谷さんも竹村さんもいまや日本のジャズ・シーンになくてはならない存在です。福居良さんはすごい先見の明の持ち主だと思います。

「良さんは粟谷さんと竹村さんとのトリオを“ヤングトリオ”と呼んでいて、水曜日をヤングトリオのライブの日にしていました。自分は全然ヤングじゃないのに(笑)。若手を育成するというよりは、とにかく現場で覚えてもらうみたいな感じでしたが、ふたりを呼び出して、課題とか宿題を出していたこともあるみたいです。たとえ相手が少年であっても、同じ舞台で演奏すれば対等だというのが良さんの考えでした。いい音を出すことが、なによりも大切ですから」

<『ア・レター・フロム・スローボート』>


---- 福居良さんは2016年に逝去されましたが、「jazz live SLOWBOAT」は今日もジャズを盛り上げていて、2017年には良さんの遺志を継ぐ “SLOWBOATレーベル”も発足しましたね。

「これまでにピアニストの山田敏昭さんのトリオで『ナウズ・ザ・タイム』、『プリティ・ウッドストック』、ヴォーカリストの玉川健一郎さんの『オン・ア・スローボート』、『シングス・フォー・ユー』を発売しました。玉川さんは良さんと長く共演していた本格的なジャズ・ヴォーカリストです。山田敏昭さんの『プリティ・ウッドストック』は残念ながら遺作となりましたが、良さんのジャズ・スピリットを引き継ぎ、最後までジャズへの情熱を燃やし続けて素晴らしい作品を残してくださいました。福居良が師と仰ぎ、生涯追求し続けたバリー・ハリスさんが残してくださった言葉“Keep Jazz Alive”を胸に、ゆっくりとですが、「jazz live SLOWBOAT」というライブの場で真剣にジャズへの挑戦を続けているミュージシャンのアルバムを全国の、そして世界のジャズ・ファンに届けたいと思っています。CDを聴いた方々が「jazz live SLOWBOAT」に来て、生き生きとした熱いジャズに出会っていただけることを願います」

<「jazz live SLOWBOAT」店内>


---- ますますのご活躍を楽しみにしております。コロナ禍が去れば、2019年以前のように、世界各地から福居良さんのファンがここにつめかけることでしょう。本日はまことにありがとうございました。
(2021年12月5日、「jazz live SLOWBOAT」にて)


<福居良>


「jazz live SLOWBOAT」HP :http://www.jazz-slowboat.jp/
※バリー・ハリス氏は現地時間の2021年12月8日、ニュージャージー州で逝去されました。