<連載>原田和典のJAZZ徒然草 第123回

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2022.11.24

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暖かくて力強い沖縄JAZZの真髄。一大コンサート「ウチナー・ジャズ・ゴーズ・オン」に登場した宮里政雄、金城吉雄、アラン・カヒーペ、テリー重田の各氏に「ジャズへの思い」をうかがってきたぜ


<ウチナー・ジャズ・オールスターズ『ウチナー・ジャズ・ゴーズ・オン』>


去る7月30日、沖縄市の「ミュージックタウン音市場」で感動的なコンサートが行われた。題して「ウチナー・ジャズ・オールスターズ スペシャル・コンサート 2022 “ウチナー・ジャズ・ゴーズ・オン”」。6月にリリースされたアルバム『ウチナー・ジャズ・ゴーズ・オン』のライヴ版が、音市場の15周年を記念して、沖縄のジャズが歩んできた道のりを再評価し、新たな世代へとつなぐべく、特別に催されたのだ。出演メンバーは、超ベテランから若手まで30人以上。原信夫との交流もあった気鋭トロンボーン奏者/アレンジャー率いる真栄里英樹BIGBAND、92歳のサックス奏者アラン・カヒーペを含むJIJI324、モーダルなプレイに本領を発揮するテリー重田カルテット、父・屋良文雄の衣鉢を継ぐ屋良朝秋 寓話カルテット、さらにドラマーの上原昌栄、ヴォーカリストの安冨祖貴子がゲスト参加するという超豪華版で、チケットは早々にソールドアウトとなった。
コロナ感染対策に細心の注意が行なわれている中、JIJI324の宮里政雄、金城吉雄、アラン・カヒーペ、さらに自身のカルテットで登場したテリー重田の各氏にお話をうかがうことができたので、ここで紹介したい。「ミュージック・マガジン」7月号掲載の真栄里英樹氏へのインタビュー、「レコード・コレクターズ」10月号掲載の上原昌栄氏へのインタビュー、および「ミュージック・マガジン」10月号掲載のライヴレビューと共にご覧いただけると幸いだ。(協力:リスペクトレコード 写真:瀬戸優)



■宮里政雄(ピアニスト)、金城吉雄(ドラマー)
沖縄ジャズの記念碑的一枚、友寄隆生カルテットの『ダーナー』(1979年にテイチクレコードから発売。某オークションの落札価格は6万円超え)に入っているふたりが、今なお共演を続けているのが嬉しい。メンバー4人の年齢を合わせたユニット「JIJI324」(ということは、来年は「JIJI328」になる)のリハーサルを終えたばかりの宮里政雄氏、金城吉雄氏にお話をうかがった。まずは友寄隆生カルテット『ダーナー』制作のいきさつから。


宮里政雄「沖縄ジャズ協会としては最初のレコーディングだったと思います。沖縄では長いことサントリーがスポンサーの番組(「ナイトインサントリー」、RBCラジオ)が放送されていて・・・」


金城吉雄「録音が週一で行なわれて、それを毎日、2~30分放送していたんじゃないかな」


宮里「その番組のアナウンサーだった徳田陽子さんの口利きで、レコーディングの話が決まったはずです。隆生さんの家に集まってあれこれ打ち合わせしたことを思い出します」


金城「録音したのは福岡だったね」


宮里「ここ(沖縄)では(レコーディングが)できるところがないということで、2泊3日で福岡に行ったんですよ」


筆者の手元には『沖縄JAZZ協会記念誌』という分厚い本があるのだが、そこで紹介されているのは圧倒的にヴォーカリスト入りのビッグ・バンドである。コンボによるモダンジャズは果たして盛んだったのだろうか。


金城「盛んだったのはビッグバンドです。米軍基地中で、米兵相手に演奏するときはバックグラウンド・ミュージック、ダンス・ミュージックが喜ばれますからね」


おふたりがジャズに開眼したきっかけについても尋ねた。


宮里「ビル・エヴァンスのレコードを初めて聴いて、こんな風にピアノを弾いてみたいということで、ジャズの道に入りました。その前は吹奏楽でトロンボーンを吹いていたんです。まだエヴァンスが新人で、今ほど知られていない頃の話です」


金城「僕は好きでドラムを始めたんじゃないですよ。需要があったから(ドラマーになった)。以前は吹奏楽でトランペットを吹いていたんです。高校3年生のときにキャバレーから「ちょっと君もやらないか」と誘いがあったんですが、その後でバンドのドラマーがやめることになって、僕がトランペットからドラムに引っ張られて。軽い感じで行って、最初はもうジャズとかそんなもんじゃなくて、タンゴとかマンボとかリズム系統の、お客を踊らせる曲ばっかりでした。あの時期は教える人が誰もいなかったので、先輩方の演奏を見て聴いて覚えて、ちょこちょこちょこちょこやっていたらそのまま米軍に引っ張られて、ジャズ・ドラマーになった感じですね」


<(左から)宮里政雄、金城吉雄>



■アラン・カヒーペ(サックス奏者)
「いろんなサックス奏者を聴いてきたが、いちばん好きなのはスタン・ゲッツだ。ジョン・コルトレーンチャーリー・パーカーも素晴らしいけどね」。


こう語るのは「JIJI324」でも活動する92歳のサックス奏者、アラン・カヒーペ氏。1930年フィリピン生まれ、第二次世界大戦の開戦時は小学四年生だったという。独学でサックスを始め、19歳でマニラ・ホテルの専属バンドに加入。51年沖縄へ移住後、72年に沖縄の施政権が日本に返還されたことに伴って軍との契約が終了するまで、嘉手納将校クラブ、キャッスルテラス・クラブ等で演奏した。


ボブ・ホープジェーン・マンスフィールドペレス・プラードレス・ブラウンジーン・クルーパ等、すごいメンバーが基地を訪れたものだ。少年時代のスティーヴィー・ワンダースプリームズの伴奏をしたこともあるよ。フルバンドで来る音楽家も多かったが、声がかかれば私も演奏に参加した。私が21歳で沖縄に来た時、1ドルが「365円」だった。その時代に私は週給270ドルを得ていた。ランドリーガール(洗濯婦)の月給が1ドルだった時代にだよ。復帰前は大半が軍の仕事だったから、沖縄の一般のミュージシャンとはほぼ演奏していない。それほど沖縄の人々と、アメリカ人やフィリピン人はセパレートされていた。それに、当時(軍の時代)はそれほどジャズを演奏していたわけじゃないんだ。オフィサーズ・クラブでは特に、コマーシャル・ミュージックをストック・アレンジで演奏することが多かった。私もタンゴ、ルンバ等を演奏したし、「マイ・ウェイ」や「ホワット・ア・ワンダフル・ワールド」を歌ったりもした。ジェイクも「アイル・リメンバー・エイプリル」のようなアメリカン・スタンダード・ナンバーが得意だったね」


“ジェイク”とは、のちに東京に渡り、引く手あまたのスタジオ・ミュージシャンとなるジェイク・H・コンセプションのこと(西城秀樹「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」、都はるみ「北の宿から」、郷ひろみ「お嫁サンバ」、松田聖子「SWEET MEMORIES」等に参加)。彼は23歳の時、沖縄にやってきたのだ。


「同じフィリピン出身だけど、ジェイクには1960年に沖縄で初めて会った。私は南のヴィサヤ生まれで、祖父はアメリカ人。ジェイクは北の方の生まれだったと思うよ(北部ルソン島のヌエヴァ・エシハ州生まれ)。ジョン・コルトレーンの『ジャイアント・ステップス』が話題を呼んでいた頃、一緒にこの曲を練習したこともある。もっともジャズはマネーにならないから、個人的にプレイしていただけだが」


幼い頃、ジェイクにかわいがってもらったという愛娘のスーザンが会話に参加する。


「父とジェイクは全然違うタイプでしたが、気が合ったんです。父はギャツビーな感じというか、バギーパンツとサスペンダーなのに、ジェイクはタイトパンツで、エルヴィス・プレスリーみたいなオールバックでテカテカした髪型で、タイトなシャツを着ていて。本当に全然恰好が違うんですよ。ジェイクはとても優しくて、叔父のような存在でした」


スーザンは現在、ニューヨーク在住。近所にキタノ・ホテルがあって、そこでジャズのライヴを聴くのが楽しみであるという。沖縄に住んでいた時は、ジェイムズ・ブラウンの通訳をしたこともあるそうだ。


「まだ本当に私が幼い頃の話です。子供にどうしてそんな仕事が来たのかはわかりませんが」


ブラウンの本土初来日は1973年だが、その5年前の68年に沖縄公演を開催していたことは知られている。その時期の“ブラック・アンド・プラウド”なブラウンの通訳をしていたのだろうか。当時の取材記事や映像を、是が非でも探したくなる。再びアランに話してもらおう。


「(沖縄が日本に)復帰したことで軍との契約は終わってしまったが、結婚して(1964年)家族がいたこともあって、沖縄に留まって今に至っている。健康の秘訣? よく食べて、毎日をハッピーに過ごすことかな」


<アラン・カヒーペ>



■テリー重田(サックス奏者)
テリー重田氏は、沖縄ジャズの歴史をひもとくYouTubeのプログラム「テリー重田の沖縄JAZZストリーム」の司会進行も務める重鎮サックス奏者。1940年に徳之島で生まれ、53年に沖縄へやって来た。「貴重な音源はいろいろあるのですが、オープンリールのため、再生機械がなかなか見つからないのが難しいところです」といいつつ、話が始まった。


「高校の卒業式の日に先輩に“テナー・サックスの奴がやめるので、代わりに入ってくれ”と言われて、即座に仕事です。何もわからないままバンドのメンバーになって、キャバレーに出て。だから成人式に出た記憶もありません。ジャズを始めた頃に夢中になったサックス奏者はソニー・ロリンズ、ジョン・コルトレーン、松本英彦さん。松本さんに関しては息子に「英彦」という名前をつけるほど尊敬しています。松本さんが参加した“ジョージ川口とビッグ・フォー”の『ジャズ・アット・ザ・トリス』というレコードを質屋で買って、何度も何度も聴きましたね。司会はロイ・ジェームスで、ピアノは中村八大、ベースは上田剛。ラジオ番組の公開録音をレコード化したそうですが、その番組は沖縄では流れていませんでした」


コザでは素人のど自慢大会の伴奏なども経験したが、やはり米軍クラブで演奏してみたいということで、普天間で合宿生活へ。この時期、ジェイク・H・コンセプションに師事した。


「とてもお世話になりました。譜面の読み方から何から、いろんなことを教えてもらいました。強烈だったのは、ライヴだったかキャンプだったか忘れましたけど、ジェイクさんとアラン・カヒーペさんがジョン・コルトレーンの「ジャイアント・ステップス」を一緒に演奏している場面です。大変な衝撃ですよ、「まだ自分はこの曲も1小節も吹くことができていないのに」って」


沖縄の施政権が日本に返還されたのは72年5月15日のこと。その6週間後、テリー重田はニューヨークを旅する。


「1972年の7月頃でしたか、「ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル・イン・ニューヨーク」の第1回目が行なわれたんです。ジャズ雑誌「スイングジャーナル」の読者ツアーに応募して、全国から40数名が集まったのかな。沖縄から参加したのは二人でした。着いたその日、「ヴィレッジ・ヴァンガード」でエルヴィン・ジョーンズを聴きました。「ハーフ・ノート」にはロイ・ヘインズが出ていて、ソニー・ロリンズを見たのは「ヴィレッジ・ゲイト」だったか「ヴィレッジ・ヴァンガード」だったか忘れましたけど、たしかマッコイ・タイナーのバンドとの二部制でした。動き回りながら、カリプソ風の曲を演奏していたのを覚えています。レコード店ではワーデル・グレイのレコードを買って、楽器屋でソプラノ・サックスも買って、そのソプラノは30年ぐらい吹いていたんですが、ラジオ沖縄の仕事の翌日に無くなってしまった。今は台湾製を使っています。ニューヨークではとにかく朝昼晩とジャズ漬けでしたね」


71年にはジャズ・スポット「DIG」を開店(85年閉店)、ここは本土と沖縄のジャズ・ピープルの交流の場としても機能した。また、2021年には、1985年の沖縄ジャンジャンにおけるライヴが、『Sun's of the son』という題名でアルバム化されている。


「「太陽の子」、沖縄の言葉では「てぃーだぬふぁー」ですが、作家の灰谷健次郎が慶良間諸島の見える自宅を持っていた頃に、大阪かどこかのテレビ局がドラマ化して、その音楽を喜納昌吉と僕が担当することになって、僕が「太陽の子」というテーマソングを作ったんです。それを沖縄ジャンジャンで演奏したライブ盤です。沖縄ジャンジャンには永六輔さんが関わっていて、しょっちゅういらしていたみたいです。高橋竹山も永さんが沖縄に紹介したのではと思います。最初に演奏した時のドラマーは、稲福常善さんではなくて津嘉山善栄さん。二回目に、西川勲さんや玉栄政昭さんと共演したときのものが、アルバムで聴ける演奏です。同じ曲を演奏しても僕らはアバウトというか、メンバーが違うだけで全然変わった内容になるんです」


『Sun's of the son』は、友寄隆生の『ダーナー』(79年)、屋良文雄の『南風』(83年)に次ぐ沖縄モダンジャズの貴重な記録ということになるはずだ。


「隆生さんは渡辺貞夫さんの生徒で、70年代前半に沖縄に戻って来たはずです。僕が1968年に「亜門」を引き継いで、71年に「DIG」を始めた頃ですね。演奏よりも、店が忙しかった時代です。隆生さんは今生きていたら、85歳ぐらいかな」(そばで話を聞いていたドラマーの上原昌栄氏;「隆生は87。僕と一緒だから」)


<テリー重田>


<テリー重田『Sun’s of the son』>


<上原昌栄 (「レコード・コレクターズ」10月号にロングインタビュー掲載)>