<連載>原田和典のJAZZ徒然草 第97回

  • JAZZ
  • JAZZ徒然草

2016.01.19

  • x
  • facebook
  • LINE

  • メール

瀬川昌久さんインタビュー(後編)
「あらためてルイ・アームストロングを聴いて感激しています。日本でももっと多くの人に、彼が大変なジャズ・ミュージシャンであったことを知ってほしいと思うんです」

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
音楽評論界の重鎮・瀬川昌久さん(一般社団法人日本ポピュラー音楽協会の専務理事)へのインタビュー、その後編をお届けしたい。日本/外国、ヴォーカル/インストゥルメンタル、コンボ/オーケストラ、古典/新作をわけへだてなく愛し、聴きまくる。そのオープン・マインドな姿勢には本当に頭が下がる。今回は日本のジャズ・ソング、三島由紀夫、オーディオパークからの『ホット・ファイブ結成90周年記念 瀬川昌久監修 ルイ・アームストロング大特集』(全4枚)などについて語っていただいた。12月11日、文化活動で優れた功績を挙げたとして文化庁の青柳正規長官より2015年度長官表彰が贈られた瀬川さん。今回のお話も時間の経過を忘れさせてくれた。


瀬川昌久さん(写真協力:日本ポピュラー音楽協会)


「チャーリー・パーカーとビッグ・バンドと私 瀬川昌久自選著作集1954-2014」(河出書房新社 2016年1月22日発売 
 
「日本のジャズは横浜から始まった」(ジャズ喫茶ちぐさ、横浜市内ジャズスポットのほか、通販サイトでも取り扱い)

ー ぼくは子供の頃からジャズを聴いてきましたが、「日本のジャズ・ソング」なるものについてはまったく知りませんでした。瀬川さんの監修された作品や著作に触れて、戦前にもこんなに洒落た音楽の世界があったことを初めて知ったんです。

瀬川昌久 僕は昭和の初期から二村定一の「マイ・ブルー・ヘヴン(青空)」とかが好きで、ずっと聴いてましたからね。川畑文子は当時たくさんいた日系のジャズ歌手の中では一番初期で、昭和7年の末に日本に着いている。続けざまに日本コロムビアからレコードを出して、昭和9年にいったんアメリカに帰った。その間に吹き込んだレコードも非常に好きで聴きましたね。銀座なんかに行くとよく曲が流れてました。でも日系の女性歌手で一番ジャズ的に上手だったのは宮川はるみですね。彼女の「ブルー・プレリュード(悲しきプレリュード)」とか「シング・シング・シング(唄へ唄へ)」は現在でも通じるうまさだと思います。声がいいし、ちょっとフェイクしてね。
ディック・ミネも昭和9年ごろからレコードが出だして、夏に鎌倉とか逗子とかの海岸で泳いだりすると浜辺に広告塔みたいなのがあってそこから彼の歌がしょっちゅう流れていた。劇場のアトラクションとかにもしょっちゅう出てましたね。アトラクションでは谷口又士のビッグバンドとか日本コロムビアジャズバンドも聴きました。谷口又士のところで歌ってたのが、森山良子さんのお母さんの浅田陽子さん。つまり森山久さんの奥さんですよ。彼女のお姉さんが日系のティーブ釜萢さんの奥さんで、その息子がかまやつひろし(ムッシュかまやつ)さん。浅田さんは「ウィスパリング」とかを歌っていた。美人でね、ベニー・グッドマン楽団で歌っているヘレン・ウォードマーサ・ティルトンの日本版を聴いてるような気分でしたよ。外国のシンガーではマキシン・サリヴァンも好きだったね。ラリー・クリントンのバンドのビー・ウェインもよかった。油井(正一)先生みたいに英語で手紙を書くことはなかったけど。(注:油井氏は女優兼歌手のナン・ウィンにガチ恋し、アメリカにファンレターを出した。後日、ブロマイドが送られてきたという)

ー いわゆる白人のダンス・バンドとは違う、黒人のジャズ・レコードを聴くようになったのは?

瀬川 デューク・エリントンですね。「スター」という雑誌があって、野川香文さんや野口久光さんがジャズのコーナーを担当されていた。ここで野口さんがエリントンを絶賛しておられるので聴き出して、これはすごい音楽だと思いました。とくに印象に残っているのは、日本コロムビアから出た「クラリネット・ラメント」と「エコーズ・オブ・ハーレム」が裏表になったSP盤です。いわゆるフレッチャー・ヘンダーソン式のアレンジじゃなくて、木管をいろいろ駆使した、要するに現代に通ずるオーケストラなんですよ。とくにバーニー・ビガードが活躍する「クラリネット・ラメント」がすごく美しくて感激しました。それからエリントンをいろいろ聴いて、「クリオール・ラヴ・コール」にも惹かれました。エリントンは親しみやすいけれど、ポップスでもないしスウィング・ジャズでもない。そこに魅力を感じましたね。

ー 野川さんは日本のジャズ評論家の草分けと言われている方です(1957年死去)。

瀬川 野川さんや河野隆次さんには学生の頃からお世話になりました。僕が大学を卒業したのは1950年、昭和25年です。あの頃は学生のダンスパーティーがものすごい盛んで、そこへ人気のバンドがしょっちゅう出ていたんですよ。ダンスパーティーは学校の野球部だとか、庭球部だとか、サッカー部だとか、運動部の資金稼ぎにもなるので、僕は「せっかくダンスパーティーをやるからには良いバンドを集めたい」と野川さんや河野さんにお願いして、有名ジャズメンを呼んだものです。ジミー荒木さんが出演したこともありますね。

ー 瀬川さんと三島由紀夫さんは同じ東大法学部ですが、三島さんとは音楽の話はしましたか?

瀬川 戦後、彼がダンスパーティーにしょっちゅう来るようになってからはしたと思いますね。僕は三島とは初等科から一緒だった。僕は昭和18年に東大に入学して、19年に海軍に入ったんです。彼は19年に東大に入って、体が弱かったので兵隊に行かなかった。僕は自分が着てた東大の制服を彼に貸した覚えがありますよ。戦後、彼は公務員試験を受けて大蔵省に入った。国債を発行するところに配属されたはずですよ。彼は文章がうまいから、国債を売る宣伝を上手にしてもらおうというのが大蔵省の上官の希望だったらしいんです。でも半年ぐらいでやめちゃった、文筆が忙しくなって。

ー 1957年にはニューヨークで再会しています。

瀬川 彼が書いた「旅の繪本」を見ていただくとわかるんだけど、「近代能楽集」の戯曲をブロードウェイで上演しようとしたんです。三島とドナルド・キーン(ニューヨーク出身の日本文学者・日本学者)が親しくて、ドナルドが企画を立てて、三島としても「ぜひブロードウェイで自分の戯曲を上演したい」というのでニューヨークに来たんですよ。それがちょうど僕がニューヨークに住んでいたときだったから、彼とはしょっちゅう会って、「バードランド」にも行きました。誰のライヴだったかは記憶にないですが。彼はとくにスペイン舞踊が好きでね、スパニッシュ・レストランでダンスを見ながら一緒に食事したり。彼は何としても戯曲の上演を実現したかったので長期戦の覚悟で、あんまり金を使えないのでグリニッチ・ヴィレッジの安いホテルに泊まってね。「どうしてそんなにがんばるのか」って尋ねたことがあるんです。「本で読まれるよりも芝居で見せた方が外国では早くわかってもらえる。何としても自分は戯曲を上演したいんだ」と。ブロードウェイの劇場街に「サーディ」という有名なレストランがあるんです(Sardi's Restaurant、1927年創業)。初日の夜、サーディにはニューヨーク中の批評家が集まって、そこで今日上演が始まったどこどこのどういう作品がどうだったかということを言い合って、批評が翌日の新聞に載る。その評によって作品がロングランできるか、それともすぐダメになるかが分かれるんです。ダメだと1週間でクローズするし、そこでほめられるとロングランになる。その批評を自分はサーディの片隅でそっと耳を澄まして聞いてみたいというんですね。自分の作品をアメリカの評論家がどう論議するか、それを聞くスリルを味わいたいんだと。非常に彼は茶目っ気がある男でね、そう言ってましたね。
 


三島由紀夫「旅の繪本」

三島由紀夫「近代能楽集」


ー その当時はエルヴィス・プレスリーが爆発的な人気だったと思いますが。

瀬川 ラジオではしょっちゅうかかっていました。ちょうど二度目のニューヨーク滞在になった頃からプレスリーがすごい人気になってきて、ヒットパレードにどんどん出てきましたね。生じゃ見なかったけどね。プレスリーはすごい大きな変革でしたよね。40年代までは、要するに、ジャズというのがポピュラー音楽の主流だったわけです。レス・ブラウンのバンドで歌うドリス・デイとか、ダイナ・ショアとか、ジャズ系の歌手が歌うバラードがヒット・チャートのトップだったんだけど、50年代になってそうじゃなくなった。僕はその当時は、率直に言うと、ジャズをダメにしたのはエルヴィス・プレスリービートルズだと思いましたね。

ー リズム&ブルースはどうでしたか?

瀬川 ラッキー・ミリンダーアンディ・カークバディ・ジョンソン、みんな好きですよ。こうした黒人のジャンプ・バンドからレイ・チャールズにつながっていくんですよ。それにジャンプ・バンドはバップも演奏しますからね。リズム&ブルースとバップは決して無縁じゃない。それからシスター・ロゼッタ・サープもいいですね。ジャズ的にも優れていると思います。ただ生では見ていません。黒人街のボールルームには出ていたのかもしれませんが、情報が入ってこなかった。日本に戻っていろんな本を読んで、レコードを集め出してから、どんどん好きになっていったんです。
 


瀬川さんが選曲したジャンプ~R&BバンドのコンピレーションLP「ゼイ・リアリー・ジャンプト」(1976年)


ー 2015年秋には、瀬川さんが監修されたルイ・アームストロング『デビューから人気者へ 1923~1936』『ホット・ファイブとセブン 1925~1928』『スタンダード・ナンバーを唄う 1929~1939』『デッカ・オーケストラ・セッションズ1936~1947』が発売されました。ルイというとここ十数年、枯れた歌を聴かせる晩年の「この素晴らしき世界」ばかりが親しまれているところもあるので、コルネットやトランペットを吹く若き日の血気盛んな演奏が市場に出るのは本当に嬉しいことです。

瀬川 ここ5、6年あらためてルイ・アームストロングを聴いてね、感激してるんです。日本でももっと多くの人に、彼が大変なジャズ・ミュージシャンであったことを知ってほしいと思うんですよ。
ルイは1922年に初めてニューオリンズからシカゴへ行って、キング・オリヴァーのバンドで1年間演奏した。それからニューヨークに行き、1924年から25年までフレッチャー・ヘンダーソンのバンドに入った。それからシカゴに帰って自身のホット・ファイヴやホット・セヴンを作った。その間の特に鍵となる曲が「ディッパー・マウス・ブルース」なんですよ。“ディッパー・マウス”(がま口)というのは恐らくルイのあだ名なんですけど(口がとても大きかったので)、作曲者はオリヴァーということになっています。1923年の演奏ではルイとオリヴァーが一緒に演奏していますが、ソロはオリヴァーだけです。1925年になると、フレッチャー・ヘンダーソン楽団がアレンジを加えてこの曲を「シュガー・フット・ストンプ」という名前で吹き込んでいます。「ディッパー・マウス・ブルース」はワン・コーラス12小節なんですが、さらにドン・レッドマンが16小節の、クラリネット合奏の第2テーマを加えたんです。そしてルイはここで、オリヴァーが「ディッパー・マウス・ブルース」で吹いた3コーラス36小節のソロを自分なりに敷衍して演奏しているんです。これが本当に素晴らしい。ルイが1年間いたあいだ、フレッチャー・ヘンダーソン楽団の面々はみちがえるように刺激を受けたといわれています。
1930年代後半、ヘンダーソンはベニー・グッドマンのアレンジャーになります。「シュガー・フット・ストンプ」のアレンジをグッドマンが買って、37年にレコーディングしたときは、ハリー・ジェームスがルイそっくりに吹いています。日本では藤家虹二さん(グッドマンを敬愛するクラリネット奏者)が好んで自分のバンドでずっと取り上げていたんですよ。もう9年ぐらい前かな、藤家さんが亡くなる直前、エリック・ミヤシロがこのパートを吹いたこともありますね。またルイは1936年、ジミー・ドーシー楽団をバックに「ディッパー・マウス・ブルース」を改めて演奏しています。

ー 『デビューから人気者へ 1923~1936』では、23年と36年の「ディッパー・マウス・ブルース」と、25年の「シュガー・フット・ストンプ」が入っています。それぞれの演奏に、そうした深い背景があるのですね

瀬川 あと、最近発見したのはグレン・ミラーが演奏する「ディッパー・マウス・ブルース」です。1939年、「グレン・アイランド・カジノ」でのライヴです。すでに多くのヒット曲を出して大ポピュラーになってからの演奏なんですが、自分のトロンボーンでオリヴァーのフレーズを全部再現している。スウィング時代のポピュラーな白人のバンド・リーダーまでがあえて黒人のジャズに取り組んだスピリット、それに僕は大変感動するんですよ。
しかも最近はドクター・ジョンも「ディッパー・マウス・ブルース」をやっている(アルバム『スピリット・オブ・サッチモ』)。まったくオリジナルには拘泥していないけれど、この曲がドクター・ジョンのようなミュージシャンにまで伝わっていること、これを日本人はもう少し考えなきゃいけないと思うんだ。ジャズのインプロヴィゼーションは決してチャーリー・パーカーから始まったわけじゃないから、その点を強調したくてね、(オーディオパークの創業者である)寺田さんにお願いした次第なんです。

ー こうしたCDでルイやニューオリンズの伝統的なジャズを愛する新世代のファンが増えることを望みます。録音年代が古いとはいえ、中身の音はかっこいいですから。

瀬川 高澤綾という若手のトランペッターを知ってますか? 彼女はもともとモダン派だったんですが、ニューオリンズ・ジャズが好きになっちゃって、しょっちゅうニューオリンズに行ってライヴ・ハウスをひっかきまわしているようですよ。そういうひとにもジャズ・ジャーナリズムは、もっと注目していいんじゃないかと思います。
 


グレン・ミラー「Live At Glen Island Casino 1939」

ドクター・ジョン「Ske-Dat-De-Dat…The Spirit of Satch」
LOUIS ARMSTRONG / ルイ・アームストロング / ルイ・アームストロング デビューから人気者へ 1923~1936
ルイ・アームストロング デビューから人気者へ 1923~1936
LOUIS ARMSTRONG / ルイ・アームストロング / ルイ・アームストロング ホット・ファイブとセブン 1925~1928
ルイ・アームストロング ホット・ファイブとセブン 1925~1928
LOUIS ARMSTRONG / ルイ・アームストロング / ルイ・アームストロング スタンダード・ナンバーを唄う 1929~1939
ルイ・アームストロング スタンダード・ナンバーを唄う 1929~1939
LOUIS ARMSTRONG / ルイ・アームストロング / ルイ・アームストロング デッカ・オーケストラ・セッションズ 1936~1947
ルイ・アームストロング デッカ・オーケストラ・セッションズ 1936~1947


 ★「泣いて! 笑って! どっこい生きる! 映画監督 瀬川昌治」

1月4日(月)~1月29日(金) 神保町シアター
http://www.shogakukan.co.jp/jinbocho-theater/program/segawa.html

瀬川昌久さんの実弟、映画監督・瀬川昌治さんの作品上映会。

榎本健一、フランキー堺、谷啓、ハナ肇、大橋巨泉、タモリ、ビートたけしなどジャズと縁の深い面々も多数スクリーンに登場、ぜひ駆けつけるべし!

トニー・スコットが出演する「乾杯!ごきげん野郎」も上映されます。



『瀬川昌久自選著作集刊行記念特集 ミュージカル映画特集~ジャズで踊って~』(3/5~3/25)

3月5日から25日までシネマヴェーラ渋谷で開催 ※トークショーも開催予定

http://www.cinemavera.com/

 

1「四十二番街 The 42nd Street」1933年 

2「ゴールド・ディガーズ Gold Diggers of 1933」1933年 

3『フットライト・パレード Footlight Parade』1933年 

4『コンチネンタル The Gay Devorcee』1934年 

5「トップハット Top Hat」1935年 

6「艦隊を追って Follow the Fleet」1936年 

7『踊らん哉 Shall We Dance』1937年 

8『聖林ホテル Hollywood Hotel』1937年 

9「気儘時代 Carefree」1938年 

10『セカンド・コーラス Second Chorus』1940年 

11『踊るニューヨーク Broadway Melody of 1940』1940年 

12『教授と美女 Ball of Fire』1941年 

13「スイング・ホテル Holiday Inn」1942年 

14『ニューオリンズ New Orleans』1947年 

15「イースター・パレードEaster Parade」1948年 

16『ヒットパレード A Song Is Born』1948年 

17『踊る大紐育 On the Town』1949年 

18『雨に唄えば Singin’ in the Rain』1952年 

参考上映

「鋪道の囁き」1934年