<連載>原田和典のJAZZ徒然草 第116回

  • JAZZ
  • JAZZ徒然草

2020.12.07

  • x
  • facebook
  • LINE

  • メール

ザ・スターリンのオリジナル・メンバーで現在はTHE MAMMY(ザ・マミイ)等で精力的に活動中。パンク・ロック・ドラマー、イヌイジュンさんの根底にある“ジャズ”を引っ張り出してみたぜ

<イヌイジュン (撮影:秋山典子)>


ザ・スターリン遠藤みちろう(※)と共に立ちあげ、近年は宮沢正一とのユニットTHE MAMMY(ザ・マミイ)でも活動するドラマー、イヌイジュンの談話を紹介したい。
「なんでパンク・ロックの大御所が、このJAZZ徒然草に?」という声も聞こえてきそうだが、以前から個人的にはイヌイさんのドラミングに何ともいえないドライヴ感を感じていた。そこでライブ終了後、なにげなく話をうかがってみたら、少年時代はジャズ・ドラマーにも憧れていて、ロック・シーンから離れていた時期、僕が編集長をしていた頃の「ジャズ批評」誌を熱心に読んでくれていたという。
イヌイさんとパンク・ロックの間にジャズを置くと、なんだかあのドラム・プレイの深淵にいっそう迫れるような気がする。THE MAMMYのアルバム『ヨクナイモノ』、赤裸々な著書『中央線は今日もまっすぐか? オレと遠藤ミチロウのザ・スターリン生活40年』も好評のイヌイさんにお話をうかがった。
(※) ここでは後年の“遠藤ミチロウ”ではなく、ザ・スターリン時代の表記“遠藤みちろう”を採用しています




<エピソード満載の著書『中央線は今日もまっすぐか? オレと遠藤ミチロウのザ・スターリン生活40年』>


--- THE MAMMYの『ヨクナイモノ』は、歌も楽器も歌詞も全部がくっきり聴こえてきて、とても気持ちいいです。宮沢正一さんの歌声が今、聴けるのもとても嬉しいです。

イヌイジュン ツイッターで「イヌイの一番の功績は、宮沢さんを音楽の世界に呼び戻したことだろう」っていうようなことを書いた人がいて、「その功績だけでも残せたら本望だな」と俺もその文章を読んで思ったもんですから、ちょっとそこには意味を感じますね。ただ宮沢さんは、僕が2019年に引っ張り出したのが最初ではなかったんですよ。「アピア40」(東京・目黒区のライブハウス)のママさんが亡くなった時に、音楽葬みたいなことやるということで(遠藤)みちろうに誘われてステージに立っているんです。2曲か3曲歌っただけなんで、あんまり話題にならなかったけど。THE MAMMYのアルバムの「るるる」はアピアのママさんへのレクイエムです。「口から肛門までの管じゃん」は、みちろうへのレクイエム。この2曲が大きなテーマかなという感じはします。

--- THE MAMMY結成のきっかけを教えてください。

イヌイ 2019年に還暦を迎えるにあたって、ずいぶん多くの人から「還暦ギグをやれ」と言われた。ただ僕はドラマーでフロントラインに立つ人間ではないですから、そんなもんやっても誰も客来ねーよって思っていたんですが、4月25日にみちろうが死んじゃった。お葬式にも音楽葬にも呼ばれず、ショックでした。僕とみちろうってそんな軽い付き合いではないと思っていましたから。それなら、僕の仲間のみちろうゆかりの人達、かつ、正式に音楽葬に呼ばれなかった人達を集めて、こっちはこっちでやろうということで、僕の(60歳の)誕生日である去年の9月24日にやった。その時に絶対出てほしかったのが宮沢さんだった。THE MAMMYや(レーベルの)シスターレコードは、2作目3作目まではやりたいねと、彼とふたりで考えています。

--- 最初から2ピース・バンドの構想だったんですか?

イヌイ 去年の9月24日にやった時には、宮沢さんのソロを何曲かと、あとはザ・ラビッツが4人編成だったので、我々も4人編成で揃えて、ヒゴヒロシさんがベース、ギターが田畑満さん、ドラムが僕で、ニュー・ラビッツっていう名前でやったんですよ。その後に「今度の春でみちろうの一周忌だし、もう1回、ライブやらない?」って宮沢さんに言ったら、「やろう」って言ってくれて。情が厚いんですよね。一周忌のタイミングで福井県のお寺でやろうってことになって、命日が4月25日なもんですから、その準備を正月くらいからやり始めていました。4人のバンドでね。そしたらコロナになっちゃって、中止にせざるを得なくなったら、今度は宮沢さんが「自分ひとりで行ってくる」って言いだしたわけです。一人で歌ってくると。「じゃぁ、俺も行くわ」っていうことで、そこでなし崩し的にデュオをやって、ネット配信した(福井県あわら市の桑原専念寺本堂で行なわれた「お経とライブ!糞爆一周忌スペシャル!」)。でもその音質に不満があったので、じゃあ正式にレコードを作ろうって宮沢さんが言い出した。ちゃんと録音しようって。THE MAMMYは結果的にデュオになったのですが、その後、みちろうがいろんなドラマーとデュオで演るのを楽しんでいたことに気づきました。宮沢正一や遠藤みちろうの「うた」にとって、必要十分なサポートはリズムである、そこについては『中央線は今日もまっすぐか』にも記してあります。THE MAMMYは基本的に全曲、作曲は宮沢さん。作詞も「夏」を除いて宮沢さん。

---- 「夏」はイヌイさんの作詞です。言葉遊びみたいなユーモアがありますね。

イヌイ なんなんだろうな。あんまり意味はないかもしれない。人を食うのが好きで、ものを食べるのも好き。「かじる」とか、「ひねる」とか、そういう言葉が好きだったもんですから、生まれて初めて作詞するんだから、好きな言葉を並べようと。

--- パンク・ロックに限らず、他のジャンルのファンにも訴えるアルバムだと思いました。


イヌイ ディスクユニオンさんは、新宿だったらもちろんパンク館にもあるんですけど、日本のロックのところにも置いてくれているんですよ。どちらかというと日本のロックの方がプッシュしてくれてまして、ヘビロテでかかっています。ユニオンさんは、スターリンを出したときもすごく協力的だし、ありがたいです。サブスクや配信は、まだ考えていないので。

--- 現物を買いに行く人、モノで持ちたい人を大切にして。

イヌイ そうですね。そういう音楽ファンにとってディスクユニオンはパラダイスですからね。

<福井県あわら市の桑原専念寺本堂で行なわれた「お経とライブ!糞爆一周忌スペシャル!」よりTHE MAMMY (撮影:秋山典子)>


--- イヌイさんがドラムを始めたのは?

イヌイ 中学生の時です。我々が子供の頃はお金持ちの息子じゃないとバンドができなかったけど、好奇心旺盛なガキだったんで、金持ちの友達がバンドをやるという話を聞いて「ぜひ入れてくれ」と。そして「俺はギターだから、お前はドラムをやれ。ドラムを買ってやるから」と言われた。それで、彼の家にあるドラムセットで練習を始めて、彼がプログレ(ッシヴ・ロック)をやりたいって言うんで、フォーカスとか、いくつかコピーした。8ビートの簡単にできそうな曲だけを選んで、変拍子だなんだっていうのはまず無理だから。それが中学3年くらいの時かな。僕の学校は中高一貫校で、一つ上にジャズに詳しい男がいた。卜田隆嗣(しめだたかし)さんと言って、今は大阪教育大学の先生。インドネシアをはじめとする東南アジア研究の第一人者ですよ。「お前もジャズを聴け」と言われて、ジャズを聴くようになりました。彼がサックスを吹いていたジャズ・バンドに入って、ソニー・ロリンズ渡辺貞夫のメロディだけ借りてフリー・ジャズみたいなこともやったり。

--- 関西70年代中高校生シーンのカオスぶりを、勝手に想像してしまいます。

イヌイ 不思議な時期でしたね。中学の頃は規則が厳しくて、丸坊主で詰襟で白風呂敷に教科書を包んでいくような恰好です。なのに高校からはまったくなんの規制もなくなる、中高一貫なのに(笑)。髪の毛は伸ばすは、ジーパン履くは、教科書なんか学校に置きっぱなし。毎日毎日、学校帰りはジャズ喫茶で一日過ごす。そんな生活になった。

--- 中高一貫校なのに、なんでそんなに規則が異なるんですか?

イヌイ 僕の5、6つ先輩に、フランス文学者になった鈴木創士がいたんです。アントナン・アルトーの翻訳とかで有名なのかな。中島らもと一緒にバンドをやっていたこともある(EP-4のメンバーでもあった)。彼が、学生運動で校則を全部撤廃しちゃったんですよ。進学校なので、成績上位は東大や京大へ行っちゃうんですけども、もちろん我々は毎日ジャズ喫茶で、下から一番二番三番四番くらいに落ちこぼれちゃって。神戸の西宮北口に「アウトプット」っていうジャズ喫茶があったんです。そこで最初に聴いたのがチャーリー・ミンガスとかバド・パウエル。その次はフリーに行きました。といってもセシル・テイラーにはすぐ行かず、山下洋輔トリオに熱中した。『フローズン・デイズ』あたりがちょうど出た頃で、えらい惹かれちゃって、ずっと聴いてましたね。

--- 『フローズン・デイズ』の頃のドラムは森山威男さん。

イヌイ 最初に憧れたドラマーは森山さんです。森山さんや小山彰太さんの演奏は本当によく聴きましたね。一応、高校1年からヤマハの音楽スクールのドラム科へ行きましたけど、あんなに上手なドラムをコピーすることはできません。

--- そこからパンク・ロックに移行したのですか?

イヌイ ワンステップありまして、またプログレが出てくるんです。灘高(灘高等学校)、関西学院高等部とかは横のつながりがあってバンド・メンバーの入れ替えが割と頻繁なんです。関西学院にすごい上手なプログレ・バンドがありまして、ドラムが辞めたということで僕が呼ばれて、本格的にプログレを2年くらいやりました。高校生なのにえらいスーパーテクニックのバンドで、ヘッドロックという名前。サザンオールスターズの前座をやったこともありますよ。後にINUに入る北田昌宏がリーダーで、彼のテクニックが本当にすごかった。それで僕らが当時、熱中していたレコードがマイク・オールドフィールドの『チューブラー・ベルズ』。あれには衝撃を受けた。そのうち、その作品がどこから出ているのか、つまりレーベルが気になってくる。ヴァージン、変な名前だなと(笑)。次の瞬間、セックス・ピストルズがヴァージンから出したわけですよね。初めて『勝手にしやがれ』を聴いた時、最初の5秒は戸惑ったけど、6秒目から「もうこれしかないだろう」っていうくらい引き込まれた。これなら俺でも無理なくできるかなとも思った(笑)。

--- 技巧派プログレ少年が、ピストルズに人生を変えられてしまった。

イヌイ そしたらちょうど北田も同じようなことを考えていた。町田町蔵のINUに入っていた北田の関西学院の友達が辞めることになって、北田が入るか入らないかっていうときに、一緒にINUのライブを見に行ったこともありますよ。大阪の心斎橋のライブハウスで、町蔵が客を挑発するわけよ。すげえと思った。ピストルズを聴いたばっかりですから、こういうことを日本でもやれるんだと感動して。「北田、おまえ、INUは絶対入れ。俺も負けずに東京で音楽をやるから」と。

<山下洋輔トリオ『フローズン・デイズ』>


<マイク・オールドフィールド『チューブラー・ベルズ』>


--- その後、イヌイさんは上京します。音大ではなく、美大に入学したのは?

イヌイ 実は、自分では美術の人間だと自己規定しているんですよ。音楽じゃなくて、美術に才能があると信じているところがあります。現代音楽のヤニス・クセナキスとか、両方やってるじゃないですか。彼はル・コルビュジェの弟子だったこともあるし、美術と音楽は切っても切れないものがあるっていうか、両方やることでなんか見えることがあるんじゃないかという考えは、ちょっとあった。もともとは彫刻家になりたかったんですよ。当時、東京藝術大学の彫刻科は、いちばん倍率が高くて40倍。受かんないことは最初からわかっていても、ただ僕は東京へ行って音楽もやりたいから、一番倍率の低い多摩美術大学の建築、同じ立体物でも建築はすごく倍率が低くて、そこには合格したので、そこで学んだと。その頃はもう遠藤みちろうと組んじゃってたんですけど、「親の金で東京へ行かせてもらって学費も払ってもらって卒業せんわけにはいかんな」と思って、ザ・スターリンをやりながら一応大学は卒業したんですけどね。そのうち「もともとはいやいや入った建築だったけど、やってみたら面白いじゃん」って思うようになって、解散(85年2月21日)のあと、そのまま建築家の道へ進みました。30数年、ずっと建築の仕事をやっているんです。

--- イヌイさんとみちろうさんは9歳年齢が違います。ピストルズを聴いて衝撃を受けたと言っても、二人の間では全然受け取り方が違ったと思うんです。みちろうさんはサイケデリックの世代で・・・

イヌイ みちろうはサイケデリックではなくて、もともとの資質はフォークですね。ジャガジャガフォークの人で、それは最後まで根底にあった。彼の作る歌はジャガジャガフォークの変なコード進行です。それをパンク・ロックにアレンジした場合、新鮮だったことはあるかもしれないですけど、後年は弾き語りのスタイルに戻ってった。そこに僕としては非常にわだかまりがある。

--- みちろうさんと出会った頃の話は、著書『中央線は今日もまっすぐか? オレと遠藤ミチロウのザ・スターリン生活40年』で詳しく触れられていますね。

イヌイ 当時住んでいた国立市のぶどう園のアパート(同著参照)にはジャズのうまい奴がいっぱいいたんです。朝から晩までずっとパラディドルとか16ビートとかずっと刻んでるわけですよ。ジャズは聴く方でいいかな、と。同じアパートにいたピアニカ前田が当時ジャズ・ピアニスト志望だった。辛島文雄さんの愛弟子で、前座をやっているのを聴いたことがある。僕は「新宿ピットイン」の昼の部にも週1回は必ず行ってました。

--- そういえば去る7月、ザ・スターリンの幻のファースト・アルバム『trash』(81年12月オリジナル・リリース)が遂に復活しました。今までどうして再発されなかったのですか?

イヌイ みんな不思議に思っていますし、僕も正直知らないです。版権は僕らにはなくて、森脇美貴夫が持っているんですよ。彼はスターリン結成当初から、スターリンっていうよりもみちろうのブレーンであって、みちろうイコールスターリンとして売っていった。

--- 『trash』のジャケット・イラストは宮西計三さん。この夏、イヌイさんと阿佐ヶ谷の「ギャラリー白線」でコラボレーションをなさいました。

イヌイ 意外かもしれませんが、80年代当時の僕はぜんぜん宮西さんのことは詳しくなかったんです。作品は知っていましたけど、事務所ですれ違ったくらいで・・・。彼との付き合いができたのはこの一年くらいの話です。宮西さんが阿佐ヶ谷で開いた展覧会を見に行って、そこから親しくなりました。年もほぼ同じですし、昔から接点がありそうなんですけれども、彼の生活範囲と僕の生活範囲は同じ関西でも全然違ったわけです。今は、彼もバンドをやっていますし、そういう意味では同じシーンだし、いわゆるアバンギャルドなところで絵を売っていって、お客さんがくるトリガーになればいいなとか、自分の作品とマッチするものがあればいいなと思ってくれているんじゃないでしょうか。

<ザ・スターリン『trash』>


<ザ・スターリン、1980年頃のステージ写真 (撮影:酒井透)>


--- なぜグループ名がザ・スターリンになったのか、いろんな説がありますが。

イヌイ これは明確です。僕の本に書いてあるように、みちろうと宮沢さんが、宮沢さんの部屋で新聞に載っているヨシフ・スターリンの広告を見つけたからです。

--- ザ・スターリンというバンド名に決めたことによって、ソビエト関係の単語を意識的に歌詞に盛り込んだりしましたか?

イヌイ それはしましたね。やっぱりスターリンっていう名前に決まっちゃうと、イメージができちゃうじゃないですか。赤い色とか星のマークとか、鋤と鍬とかハンマーとか。そこから「玉ネギ畑」っていう曲ができたと思います。

--- メジャー・デビュー作『STOP JAP』の時は「玉ネギ畑」、それ以前の『スターリニズム』では「コルホーズの玉ネギ畑」というタイトルでした。

イヌイ 曲名が変わったのには深い意味はなくて、その場の思い付きで多分変わっちゃうだけの話。検閲も入ってないです、この曲については。(ギターの)金子アツシが「俺が作った曲だ」みたいなことを言っているんですが、それはちょっとマユツバかな。基本的にはみちろうが作っていたと思うんですよ、やっぱり独特なコード進行なので。それ以前に、みちろうが作ってきた曲は全部BPMが遅い! 曲を聴かせるときに、ジャガジャガジャガジャガギターを弾いて歌う。それじゃパンクにならないから、「みちろうはギターをやめよう、テンポもあげよう」と、僕はずっと強く強く言ってきた。テンポをもっと上げろもっと上げろっていうことをずっと言って、ドラムはもちろん早く叩いて。ザ・スターリンのリズムは独特だと言われましたよ。僕の変なドラムとミチロウの変なコード進行が、うまくかぶさったんですかね。

--- ところで、こういう写真があるんですが(マガジン・ファイブ『ザ・スターリン伝説』56ページ。全裸で坐り込む遠藤みちろうに、イヌイジュンが食べものを与えている)

イヌイ これは日常的な姿ですね。俺が食わしてあげているのか、いじめているのかどっちかわからないけれど。まったく日常の風景ですね。

--- 『ザ・スターリン伝説』には、ザ・スターリンが、スキャンダラスな面も含めて、急速に知れ渡っていく様子が捉えられています。石井聰亙監督(現・石井岳龍)の映画『爆裂都市 BURST CITY』にマッド・スターリンとして登場したり、話題になっていく中で、たとえば松田聖子田原俊彦と知り合うとか、そういう芸能界的な出来事はありましたか?

イヌイ 全然ないです。テレビにもほとんど出なかったですし。当時は松田聖子がいるような芸能界と、アンダーグラウンドに大きく分かれていて、スターリンはオリコン・チャートに入ったといっても、位置としてはアンダーグラウンドの上ぐらい。最初は日本コロムビアから出す話もあったんですけど、僕らの知らないところで蹴られちゃって、徳間から出ることになって、でもそれが良かった。加藤正文さんが本当にスターリンに惚れてくれて、自分で(ディレクションを)やりたくてやりたくてしょうがなくて、僕らをどんどん引っ張っていってくれたから。

<『ザ・スターリン伝説』>


<『爆裂都市 BURST CITY』>


--- 話を最近に戻しますが、森川誠一郎さんがザ・スターリンXのヴォーカルを担当したのにも驚きました。

イヌイ 先に触れた還暦ギグ(9.24ザ・スターリン同窓会)で、ザ・スターリンX、ザ・スターリンYっていう名前でザ・スターリンを復活させようとしたんですが、ヴォーカルがいないわけですよ。若い人をたくさん集めて2、3曲ずつ歌ってもらって、全員ゲスト・ヴォーカルでも良かったんですけど、「アーチスト〜マリアンヌ」に関しては若い人は絶対無理だな、きちんと歌える奴はいないかと思ってYouTubeを検索したら森川くんを見つけたんですよ。

--- あの「Cry The War」でおなじみ、Z.O.Aの森川さんが参加されるとは、僕は感動でふるえましたよ。

イヌイ 僕は30年くらいシーンから遠ざかってたから、実はその辺の人達を全然知らなかった。それでヒゴヒロシさんとかに尋ねて。「森川誠一郎って知ってる?」「一緒にバンドやってるよ」「えー、そうなの?」みたいな。で、呼んでもらって、バンドを組んで。

--- またドラムを始めるのは大変だったんじゃないですか。両手両足の動きとか。

イヌイ 変に、できる自信はあったんですけどね。でも、できませんでした。かなり訓練しましたね。

--- 9月の新宿ACBホールの公演を拝見した時に、次の世代というかイヌイさんを慕う若手がすごくいて、層が厚いなと思いました。コピーバンドも、たくさんいて。

イヌイ ロックの歴史が長くなってきたことの証だと思うんです。僕が彼らくらいの年齢だった70年代って、前の歴史としてローリング・ストーンズとかの曲があっても、それはたかだか10年前のものであって、今みたいに40年も前のスターリンの曲を若い人がやってくれることはなかった。僕の若い頃からさかのぼって40年前に何があったかっていうと、戦中・戦前になる(笑)。ミック・ジャガーでもなんでもない僕らみたいなやつが40年も前にやっていた音楽をコピーしたり聴いてくれる若い人がいるんだっていうこと自体、もうびっくりしますし、フィンランドのバンド“LAPINPOLTAJAT”も「カッパンク」というイベントでスターリンの「解剖室」をやってくれて、世の中変わりました。

--- 2020年はコロナでさんざんでしたが、来たる2021年はどんな活動を考えていますか?

イヌイ パンク・バンドを新しく始めます。まだ交渉段階なのでメンバーは言えないですけどね。ただ、コロナのなかで人数制限とか気にしてわざわざライブをやるのは嫌です。パンクですから。

<『9.24ザ・スターリン同窓会』 宮沢正一の「ザ・ラビッツ」、森川誠一郎(Z.O.A、.血と雫)や田畑満(G)参加の「ザ・スターリンX」、泯比沙子などなどが参加の「ザ・スターリンY」の爆裂実況録音>


<イヌイジュン (撮影:C STUDIO)>